芭蕉 ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 4月27日(旧暦 三月八日)木曜日
ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 芭蕉
「よしのに三日とどまりて」、貞享五年三月二十七日(1688年4月27日)頃の高野山での吟。「笈の小文」に「高野」と前書して掲句と「散る花に髻はづかし奥の院 万菊」が載っています。
また、「高野登山端書」と呼ばれる芭蕉の俳文が伝わっています。「高野のおくにのぼれば、(略)春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼くにも腸(はらわた)を破るばかりにて、御庿(ごびょう)を心しずかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたず)みて倩(つらつら)おもふやうあり。此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつめれと、袂もせきあへず、そぞろにこぼるゝ涙をとどめて、/父母*のしきりに恋し雉の声」
* 行基の釈教歌「山鳥のほろほろと啼く声きけば父かととぞ思ふ母かとぞ思ふ」に拠るといわれています。しかし典拠かもしれない歌がほかにもあります。高野山から和歌の浦へのほぼ中間あたりにある西国三十三か所第3番の名刹、粉河寺のご詠歌は「父母の恵みも深き粉河寺佛の誓ひ たのもしの身や」です。芭蕉一行が立ち寄ったかどうかはわかりませんが、元禄四年きりにこひし雉の声 芭蕉

「よしのに三日とどまりて」、貞享五年三月二十七日(1688年4月27日)頃の高野山での吟。「笈の小文」に「高野」と前書して掲句と「散る花に髻はづかし奥の院 万菊」が載っています。
また、「高野登山端書」と呼ばれる芭蕉の俳文が伝わっています。「高野のおくにのぼれば、(略)春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼くにも腸(はらわた)を破るばかりにて、御庿(ごびょう)を心しずかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたず)みて倩(つらつら)おもふやうあり。此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつめれと、袂もせきあへず、そぞろにこぼるゝ涙をとどめて、/父母*のしきりに恋し雉の声」
* 行基の釈教歌「山鳥のほろほろと啼く声きけば父かととぞ思ふ母かとぞ思ふ」に拠るといわれています。しかし典拠かもしれない歌がほかにもあります。高野山から和歌の浦へのほぼ中間あたりにある西国三十三か所第3番の名刹、粉河寺のご詠歌は「父母の恵みも深き粉河寺佛の誓ひ たのもしの身や」です。芭蕉一行が立ち寄ったかどうかはわかりませんが、元禄四年四月に曽良は近畿巡遊の旅の途次に同寺を参詣、その後五月二日に嵯峨野落柿舎に師の芭蕉を訪れ「彼是取混ぜて談」じています。
chatGPT斎 今日の一句 老いたる 親の手に咲く 菜の花

コメント
コメントを投稿