蕪村 牡丹散て打ちかさなりぬ二三片 6月13日(旧暦 四月二十五日)火曜日

牡丹散(ちり)て打ちかさなりぬ二三片 蕪村

明和六年五月十日(1769年6月13日)の詠です。同日詠に、短夜の夜の間に咲るぼたん哉  閻王の口や牡丹を吐んとす* などがあります。

「散て」を「チッテと読む方が句に勁(つよ)さも出、切字も利いて好もしい」(安藤次男)という意見もありますが、安永九年(1780年)七月几董宛書簡に上五を「ぼたんちりて」と蕪村自身書いていることもあってか、通常「ちりて」と読むようです。

*この句の前書に「波翻舌本吐紅蓮」とあります。これは白居易の「遊悟真寺詩」の中の一節「誦此蓮花偈,數滿百億千。身壞口不壞,舌根如紅蓮顱骨今不見,石函尚存焉。粉壁有吳畫,筆彩依舊鮮。」(「この蓮華の偈を何十億も唱えた。 身は朽ちても口は朽ちず、舌根は赤い蓮のようだ。 頭蓋骨は今は見えないが、石の箱にはまだ残っている。 白い壁には吳の絵があり、筆の色はいまだに鮮やかだ。」Bing亭訳)に拠っていますが、この句の牡丹は本詩句からの絵画的イメージが強く直接的で、菩薩の蓮華ならぬ閻魔さんは紅蓮の牡丹を吐くと言い換えたおかしみと共に映像的にはなるほど強烈ですが、5月27日のような気宇壮大な「気」まで至ってないように思います。

閻魔は「蓮華偈頌」はもちろん南無妙法蓮華経といったお題目も唱えるとは思えませんが、牡丹といわれてやっぱりおかしかったんでしょうね。京の人なら、称名を唱え「南無阿弥陀仏」六体の仏が口から吐く六波羅蜜寺の空也像を思い浮かべたかもしれません。

Bing亭 今日の一句  散り行くは 牡丹の花か 夢の跡

以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年05月」の「五月二十六日」欄からの引用です。

なまなまときてしありしかな上田五千石

牡丹は花の王ともいわれている。在りし日のなまめかしい牡丹を思い、深い眼差しで対座する師の姿がある。「かな」の詠嘆は牡丹の気品、華麗さを包みこんで、「今を美し」とする五千石先生ならではの美意識へと誘われる。六十二歳の作。( 山下桂子)

 
「上田五千石集」 脚註名句シリーズ二( 一五)


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