蕪村 ほととぎす平安城を筋違に 5月26日(旧暦 四月七日)金曜日 紅花栄(こうかさかう) リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 5月 26, 2023 ほととぎす平安城を筋違に 蕪村明和八年四月十三日(1771年5月26日、252年前の今日)、京での吟。この日蕪村は、宵々の雨に音なし杜若 の句も詠んでいます。昨日の芭蕉句を含めれば、三日連続のほととぎすの句となりました。七十二候「紅花栄」に入ります。chatGPT斎 今日の一句 木漏れ日に ひそやかに鳴く ほととぎす リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
芭蕉 ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 4月27日(旧暦 三月八日)木曜日 4月 26, 2023 ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 芭蕉 「よしのに三日とどまりて」、貞享五年三月二十七日(1688年4月27日)頃の高野山での吟。「笈の小文」に「高野」と前書して掲句と「 散る花に髻はづかし奥の院 万菊」が載っています。 また、「高野登山端書」と呼ばれる芭蕉の俳文が伝わっています。「高野のおくにのぼれば、(略)春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼くにも腸(はらわた)を破るばかりにて、御庿(ごびょう)を心しずかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたず)みて倩(つらつら)おもふやうあり。此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつめれと、袂もせきあへず、そぞろにこぼるゝ涙をとどめて、/父母*のしきりに恋し雉の声」 * 行基の釈教歌「山鳥のほろほろと啼く声きけば父かととぞ思ふ母かとぞ思ふ」に拠るといわれています。しかし典拠かもしれない歌がほかにもあります。高野山から和歌の浦へのほぼ中間あたりにある西国三十三か所第3番の名刹、粉河寺のご詠歌は「父母 の恵みも深き粉河寺 佛の誓ひ たのもしの身や」です。 芭蕉一行が立ち寄ったかどうかはわかりませんが、元禄四年きりにこひし雉の声 芭蕉  「よしのに三日とどまりて」、貞享五年三月二十七日(1688年4月27日)頃の高野山での吟。「笈の小文」に「高野」と前書して掲句と「散る花に髻はづかし奥の院 万菊」が載っています。 また、「高野登山端書」と呼ばれる芭蕉の俳文が伝わっています。「高野のおくにのぼれば、(略)春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼くにも腸(はらわた)を破るばかりにて、御庿(ごびょう)を心しずかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたず)みて倩(つらつら)おもふやうあり。此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつめれと、袂もせきあへず、そぞろにこぼるゝ涙をとどめて、/父母*のしきりに恋し雉の声」 * 行基の釈教歌「山鳥のほろほろと啼く声きけば父かととぞ思ふ母かとぞ思ふ」に拠るといわれています。しかし典拠かもしれない歌がほかにもあります。高野山から和歌の浦へのほぼ中間あたりにある西国三十三か所第3番の名刹、粉河寺のご詠歌は「父母の恵みも深き... 続きを読む
芭蕉 夏草や兵どもが夢の跡 6月29日(旧暦 五月十二日)木曜日 6月 29, 2023 夏草や兵どもが夢の跡 芭蕉 曽良の旅日記に「十三日、天気明。巳ノ剋ヨリ平泉ヘ趣。(略) 高館、衣川、衣ノ関、中尊寺(別当案内)光堂(金色堂)、泉城、さくら川、秀衡屋敷等ヲ見ル。」と書いたのは、元禄二年五月十三日(1689年6月29日)のことです。 この日高館において、芭蕉は「偖(さて)も義臣すぐって此の城にこもり、功名一時の叢となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ」と書いています。そして掲句を記しています。当日詠んだ句のように思われますがが、曽良の旅日記俳諧書留には記載がありませんので残念ながらそうではなく後日の作かもしれません。 掲句の初出は、元禄三年八月京都で出版された大坂の灯外編の「俳諧生駒堂」で、「平泉古戦城 路通が語りしを聞て なつ草や兵どもの夢の跡 」となっています。元禄二年八月に路通は敦賀まで芭蕉を迎えに行き、大垣、伊勢迄同行していますから、その折にこの句を聞き知っていたのでしょう。それを編者の灯外あるいは灯外と親しいと思われる鬼貫に語ったものでしょう。鬼貫は奥州藤原氏の裔という伊丹の造り酒屋の生まれでした。 chatGPT斎 今日の一句 夏の夢 煌めく海と 星の語り 続きを読む
蕪村 岩倉の狂女恋せよ子規 5月24日(旧暦 四月五日)水曜日 5月 25, 2023 岩倉の狂女恋せよ子規 蕪村 安永二年四月四日(1773年5月24日)、京での吟。蕪村句集では前書はありませんが、自画讃では「数ならぬ身はきき侍らず」と詞書があるそうです。これは、徒然草百七段の 「 時鳥や聞き給へると問ひて心見られけるに、某の大納言とかやは、数ならぬ身はえ聞き候はず、と答へられけり。堀川内大臣殿は、岩倉にて聞きて候ひしやらん、と仰せられたりける」を引いた句であることを示しています。しかし、句集編纂にあたり詞書を省略していますので、独立した句として取り扱うとの意思だったのでしょう。 では、なぜ徒然草のエピソードがなくとも成立つかと言いますと、そもそも岩倉大雲寺は徒然草の時代の遥か前、平安中期に時の皇后 の精神病治療に貢献するなど精神疾患治療する施設として有名でした。そして「 江戸時代の前期、 大雲寺 の周囲に各地から参集した精神病者とその家族のための茶屋が4軒以上」あったそうですから、徒然草がなくとも「岩倉の狂女」で京都の人々には十分理解できたのです。 徒然草は明らかに「岩倉」を否定的に見ていますしからかってもいます。蕪村は「狂女」に寄り添っているというより、恋しているように感じます。ちょっと言い過ぎかもしれませんが… この時期になると、ほととぎすの声が聞こえるのではないかと耳を澄ませますが、老鶯の声ばかりでめったに聞けません。「数ならぬ身」だからでしょうか。 chatGPT斎 今日の一句 鏡に映る 狂女の笑みは 夢か現か 続きを読む
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