蕪村 我帰る路いく筋ぞ春の艸 4月13日(旧暦 閏二月二十三日)木曜日
我帰る路いく筋ぞ春の艸 蕪村
蕪村の伝真蹟自画讃に、「諸子*とわだのみさきの隣松院に会す。題を探り偶春草を得たり。余不堪感慨。しきりにおもふ、王孫万里今なをいづちにありや。故郷の春色誰ためにか来去す。王孫々々、君が遠遊に倣ふべからず、君が無常を学べからず。」とし掲句が記されています。「蕪村全集」の注釈に「いずれの道をとったらいいのだろうか。大魯への留別の情に故郷喪失者の痛切な望郷の思いを重ねた。**」と解説しています。「几菫句稿」に、安永七年三月十五日(1778.4.12)「和田岬***、隣松院小集。席上探題。」同十六日(4月13日すなわち245年前の今日)「来屯亭にやどる。戯画。」とあります。この蕪村筆の「戯画」は、身の上を案じてやまない愛弟子大魯に与えられ、「我帰る」自画讃として今に伝わります。
*「諸子」とは、蕪村、几董、来屯(きむろ)、大魯等。大魯は、来屯亭に流寓中でした。掲句の2,3日後に脇の浜の客舎(井筒屋)で詠んだ「筋違にふとん敷たり宵の春」があります。「値千金の春の宵、(略)斜めに敷いた床で頭を寄せて心行くまで語り合った」のは蕪村と大魯であった気がしてなりません。 **前安永六年春の春風馬堤曲に「春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ」の詩句があります。そして安永八年春蕪村は、「泣に来て花に隠る思ひかな」との追悼句を詠むこととなります。大魯は和田岬に遊んだ七年の十一月十三日(1778.12.31)に病没します。病中、蕪村は「大魯が病の復常をいのる」として「痩脛や病より起つ鶴寒し」と見舞句を詠んでいます。 ***今の神戸市兵庫区和田岬。なお、来屯亭は兵庫区兵庫町あたりにあったそうです。
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