芭蕉 春の夜や籠り人ゆかし堂の隅 4月20日(旧暦 三月一日)木曜日 穀雨 葭始生(よしはじめてしょうず)

春の夜や籠(こも)り人(ど)ゆかし堂の隅 芭蕉 

伊賀上野を出立した芭蕉一行*は、国見山の兼好塚などを見物、途中一泊ののち貞享五年三月二十日(1688年4月20日、344年前の今日)琴引峠を越え大和初瀬に入り、長谷寺を参詣します。掲句はその折の詠です。
長谷は恋成就祈願の霊験あらたかで名高い観音様でしたので、「籠り人」は身分のある女性**ように思われます。「笈の小文」では、掲句に続け「足駄はく僧も見えたり花の雨 万菊」の句を掲載しています。

なお、芭蕉は「旅の具多きは道さはりなりと物皆払捨たれども、夜の料にとかみこ壱つ、合羽やうの物、硯、筆、かみ、薬等、昼餉なんど物に包て後に背負たれば、いとゝすねよはく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて道猶すゝまず。***」と書いています。しかしながら、伊賀上野から長谷寺まで11~12里、1日で歩ける距離ですから、途中一泊している一行は、実際のところ春爛漫ゆったりとした道中を愉しんだのだと思います。

*猿雖の下僕「六」が二人に同行しており、奈良まで一緒だったようです。 **芭蕉は、この年の九月に越人と両吟歌仙を巻いていますが、その中に越人の「人去ていまだ御座(おまし)の匂ける」の句に、芭蕉は「初瀬に籠る堂の片隅」と付けています。 ***ここの部分は、「おくのほそ道」の旅立ち、千住から草加あたりの文章「行道なをすゝまず。」「只身すがらにと出立侍るを、痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。」「帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた、雨具、墨、筆のたぐひ、(略) 路次の煩となれるこそわりなけれ。」によく似ています。これは、「笈の小文」と「おくのほそ道」の執筆・推敲時期が重なっていたためでしょう。


chatGPT斎 今日の一句  桜散る うつろなりけり 空の青

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