芭蕉 すずしさの指図にみゆる住居哉 6月15日(旧暦 四月二十七日)木曜日

すずしさの指図にみゆる住居哉 芭蕉 

島田宿で三日の渡り止めのあと、十九日に知己たちの助けを得て、水嵩の高い大井川を越した芭蕉は、二十二日に名古屋に到着。その日は荷兮邸に泊り、翌日隠居所を造ろうとしている野水邸に遊んだ時の吟です。元禄七年五月二十三日(1694年6月15日)のことです。

芭蕉は、閏5月の杉風宛書簡の追記に「野水隠居所支度の折ふし」と前書して、「涼しさを飛騨の工*がさしづかな」と掲句を記して「句作二色之内、越人相談候住居の方をとり申候。飛騨のたくみまさり申べく候(哉)。」と書いています。**

「指図」は大工棟梁が板などに書いた建物の計画図です。それにしても、専門家ではない芭蕉が設計図を見て建物の出来上がりがわかるのはすごいと思います。全員というわけではないでしょうが、そのような文化が江戸時代あったのですね…。

*奈良時代以前より、税を免除する代わりに「匠丁」(木工)を飛騨の国から徴用する規定が律令に定められ、平安末期まで続きました。この制度によって都に送り出された「飛騨のたくみ」達は新都造営や多くの建築物に携わり、優れた建築技術を持つ者として「源氏物語」や「今昔物語」にも登場します。大和三山の中央に位置する、芭蕉の時代「飛騨村」と呼ばれていた現在の橿原市飛騨町はじめ、畝傍山の西に位置する同市古川町などは、飛騨の匠たちが長く住んでいた所だそうです。

**のちに土芳は「蕉翁句集」に「此両句、いづれに決したるか。」と書いています。ただ「住居の方」は「涼しさは柱にミゆる住ゐ哉」と掲載し、敢えて形を変えている感がありますから、土芳は師の意見を支持しているのでしょう。

なお、写真は元禄五年五月に竣工なった新芭蕉庵の大岡敏昭氏による推定平面図(「清閑の暮らし」草思社から)です。

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