一茶 古郷やよるも障るも茨の花 6月20日(旧暦 五月三日)火曜日
昨日、実家を通り越して一里先の野尻宿の門人魯童亭に泊まった一茶は、「十九。雨。辰刻、柏原ニ入。」文化七年五月十九日(1810年6月20日)早朝のことでした。
「小丸山*墓参。村長**誰かれに逢ひて、我家に入る。きのふ心の占のごとく、素湯(さゆ)一つとも云ざれば、そこそこにして出る。」として、掲句。この日は柏原の旅籠「小升屋」に宿泊、翌二十日夕方には柏原を離れ、信濃の門弟宅を尋ね歩き、二十七日小諸泊、六月朔日には江戸にもどります。
「村長誰かれ」との書きぶりからは、名主**も一茶の味方ではないようで、実家も「そこそこにして出る」始末ですから、わざわざ江戸から出向いたにもかかわらず遺産分割履行の協議は進まなかったようです。***
*明専寺の墓地、一茶の父弥五兵衛の墓があります。今回の帰郷は、享和元年(1801年)五月二十一日に亡くなった亡父の墓参の方に目的があったのかもしれません。 **名主中村嘉左衛門。一茶は、安永五年十一月付の「取極一札之事」という、義弟と遺言通り折半するという内容で遺産分割について具体的に取り交わした証文を、村役人に提出しています。この証文は、この「村長誰かれ」自身の名主中村嘉左衛門が書いたと言われています。 ***「茨の花」と題した文が残されており、「柱ともたれしなぬし嘉左衛門といふ人に、あが仏の書一枚いつはりとられしものから、(略)たのむ木陰も雨降れば、一夜やどるよすがもなく、六十里来りて、墓より直に又六十里外の東へふみ出しぬ。」とあります。「取極一札」作成したとき名主に、一茶は亡父直筆の遺言書を預けてしまったらしいとのことです。
Bing亭 今日の一句 茨道 古郷に帰る 故人の声

コメント
コメントを投稿