芭蕉 山寺や石にしみつく蝉の声 7月13日(旧暦 五月二十六日)木曜日

山寺や石にしみつく蝉の声   芭蕉

「立石寺」と前書して、曽良の「旅日記俳諧書留」にあります。十日間留まった尾花沢から皆に薦められ、芭蕉と曽良は山寺(立石寺)に向かいます。尾花沢より七里半ほどの距離で、途中の舘岡(今の山形県村山市楯岡)まで、清風の心遣いで馬で送られました。舘岡から山寺まで三里半、8時頃に尾花沢を出発した芭蕉は14時くらいに到着して、その日に山上・山下巡礼を済ませます。その時掲句が詠まれました。元禄二年五月二十七日(1689年7月13日)のことです。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声 の原句です。蝉の種類についてはニイニイゼミが定説になっているようですが、わたしはヒグラシ*じゃないかと思っています。

この日、芭蕉はもう一句詠んでいます。同じく「俳諧書留」に「立石の道にて まゆはきを俤にして紅ノ花」とある句です。清風は紅や紅色染料となる紅花で財を成したといわれますが、冬雪が深い尾花沢周辺では紅花は栽培されず、少し南の村山地域が「最上紅花」の主な産地でした。ちょうど開花時期でしたので、芭蕉は山寺に向かう道すがら見かけたものでしょう。

紅花の色は主に黄で、紅色成分を抽出乾燥して固めたものを紅餅にして流通しました。「最上紅花」は上質で、金の10倍といわれるの程高価なブランド品でした。この「最上紅花」を一手に江戸や京・大坂へ供給していたのが、尾花沢の清風でした。なお、源氏物語の「末摘花」はこの紅花の別名です。

*夕方などに「カナカナカナ」とどこかの梢で鳴きはじめ、しばらくして「カナカナ」と別の梢から呼応するように鳴き声が聞こえ、そのうちあたり木々が唱和するかに大きくなり、やがてすうっと鳴き止んでしまうといった、波のような鳴き方をするヒグラシ。私は7月25日と芭蕉より十日あまり後になりますが山寺で聞きました。7月3日に紹介しました貞享二年(1685年)江戸小石川での「涼しさの」百韻において、芭蕉は「ひぐらしの声絶るかたに月見窓」(第三十七句目)と、前句の「古梵」に付けて詠んでいます。

、Bing亭 今日の一句  なつの夢はあやうし あさ蝉頻り

コメント

このブログの人気の投稿

芭蕉 ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 4月27日(旧暦 三月八日)木曜日

芭蕉 夏草や兵どもが夢の跡 6月29日(旧暦 五月十二日)木曜日

蕪村 牡丹散て打ちかさなりぬ二三片 6月13日(旧暦 四月二十五日)火曜日