芭蕉 ありとあるたとへにも似ず三日の月 7月29日(旧暦 六月十二日)土曜日

ありとあるたとへにも似ず三日の月  芭蕉

「尾張円頓寺にて」との前書があります。笈の小文の旅を五月下旬いったん終え芭蕉は、京を経て、大津、岐阜等に滞在したあと、元禄元年七月三日(1688年7月29日)、尾張広井村八軒屋敷(現在の名古屋市西区那古野辺り)の長久山円頓寺に在って、この句を詠みました。円頓寺は名古屋駅にほど近い那古野に今も残りますが、当時より300mほど北に移転しているそうです。

掲句は推敲され、元禄二年(1689年)出版の荷兮編「阿羅野」巻之一、「月三十句」の内「二日 見る人もたしなき月の夕かな 荷兮」に続けて「三日 何事の見たてにも似ず三かの月 芭蕉」として収録されています。じつは「阿羅野」巻之五「初冬」にも、荷兮は別の二日月の句を掲載。「こがらしに二日の月のふきちるか」荷兮の自信作です。

どう「三日月」を詠むか、以前から芭蕉と名古屋の連衆との間には歌仙等でのこだわり、もしかして確執のようなものがあったのかもしれません。

貞享元年(1684年)野ざらしの旅で名古屋の荷兮らと巻いた歌仙のうち、杜国の発句「つゝみかねて月とり落とす霽(しぐれ)かな」歌仙の裏の月の座で、芭蕉は「三ケ月の東は暗く鐘の声」と「三日月」を詠みました。

貞享三年(1686年)秋、芭蕉が「明行や二十七夜も三日の月」と詠んでみせたことは、名古屋にも聞こえていたでしょう。貞享四年(1687年)10月江戸を出立して笈の小文の旅を始めた芭蕉が11月岐阜落梧亭で巻いた「凩の」三十句において、二十六句目に荷兮は「女師走の月とちぎるか」という奇矯な句を付けています。そして、同年12月熱田での如行、桐葉との三吟半歌仙「旅人と」の第十四句目に芭蕉は「三ケ月細く節句しりけり」と詠みました。

自成庵謝幾 今日の一句  三日月の 生きる意味問う 樹下の石



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