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8月, 2023の投稿を表示しています

其角 親も子も清き心や蓮売 8月16日(旧暦 七月一日)水曜日

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親も子も清き心や蓮売(はちすうり) 其角 「花はかたみ*に入、葉はあふこ**に荷ひ分て、その労にかはらむといふ。誠切なるあらそひを」と前書があります。 盂蘭盆会の蓮の葉と花を振り売りする親子の、お互いを労わるやり取りへの其角の眼差し。「花摘」元禄三年七月十一日(1690年月16日)の詠です。 *筐(かたみ)、竹で細かく編んだ籠。 ** 朸(おうこ)、荷を担うための棒。天秤棒。

蕪村 秋来ぬと合点させたる嚏かな 8月15日(旧暦 六月二十九日)火曜日

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秋来ぬと合点させたる嚏(くさめ)かな 蕪村 明和五年七月四日(1768年8月15日)、大来堂の会、兼題「立秋」による詠。 古今集の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(藤原敏行)の「風の音」ならぬ、ハックション!でという趣向ですけど、掲句の3年後に詠んだ一昨日の陰陽師の句の方が格段にいいようです。

其角  生霊酒のさがらぬ祖父かな 8月14日(旧暦 六月二十八日)月曜日

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生霊(イキミタマ)酒のさがらぬ祖父(オホヂ)かな 其角 「花摘」元禄三年七月九日(1690年8月14日)の吟。 生霊(生身魂)は、お盆に死者だけでなく両親とも健在な老親の生きたミタマを子供らが飲食で供養する行事。生盆とも。七月八日から十五日にかけて日本各地で行われていたといいます。 掲句は、其角が子供のころのお盆の思い出だと思います。自分自身の大酒は祖父譲りだと嘯き、豪快に盃を傾けながら詠んだものでしょう。

蕪村  秋たつや何におどろく陰陽師 8月13日(旧暦 六月二十七日)日曜日 寒蝉鳴(かんぜみなく)

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秋たつや何におどろく陰陽師 蕪村 明和八年七月三日(1771年8月13日) 高徳院での「立秋」による題詠。初形は上五「今日の秋」。ただし、この年の立秋は六月二十七日でした。 陰陽師は驚いているのか、いないのか? 観念的ですが、天文学はじめ陰陽道により森羅万象に通暁している「陰陽師」にとって、何も驚くようなことはないというおかしみ詠んでいるように思えます。 同日吟に、 貧乏に追い付かれたり今朝の秋  があります。着の身着のままで過ごせた夏が終わり、これからの季節に向けた支度に着物やら蒲団やらを質屋から請け出さなくてはといった庶民感覚の立秋の朝です。「蕪村句集」では  貧乏に追いつかれけりけさの朝  に、そして『蕪村自筆句帳」で  貧乏に追いつかれけれけさの秋  と「貧乏にこそ」の「こそ」が省略された形に直されています。

其角 七夕や暮露よび入れて笛をきく 8月12日(旧暦 六月二十六日)土曜日

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七夕や暮露(ぼろ)よび入れて笛をきく 其角    「花摘」元禄三年七月七日(1690年8月12日)の条の句。「秋風楽を所望して」と前書があります。 暮露とは有髪の乞食坊主のことで、通りを流す尺八を吹く虚無僧か、もしかしたら一節切(ひとよぎり)の奏者かを呼び込んで、俗曲ではない「秋風楽」という雅楽をリクエストしてたのです。 七夕を肴の酒席だったのでしょうが、「暮露」の雅楽を聴いて源氏物語の「 乞巧奠( きこうでん)」だと面白がったのかもしれません。

芭蕉 秋ちかき心の寄や四畳半 8月11日(旧暦 六月二十五日)金曜日

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秋ちかき心の寄や四畳半 芭蕉  「元禄七年六月二十一日大津木節*庵にて」と前書があります。同日(1694年8月11日)、惟然、支考と巻いた四吟歌仙の発句です。脇は木節の  しどろに伏せる撫子の露。 元禄七年は閏五月があり、立秋は六月十六日でしたから「秋」と詠んでもよかったのですが、芭蕉はあえて六月二十一日で「秋ちかき・ちかき心の寄や」と詠んだのだと思います。この日は芭蕉に近しい女性だった寿貞尼の三七日に当たり、木節の配慮もあり四畳半の茶室で寿貞尼を偲ぶ会として開催されたようです。なお、「寄」の読みは「ヨル」が通説となっていますが、土芳は「ヨリ」であると直接芭蕉から聞いたと書き残しているそうです。 *木節は大津の医師で、この4か月後に大坂で芭蕉の最期をみとることになります。

山頭火 別れてからもう九日の月が出てゐる 8月10日(旧暦 六月二十四日)木曜日

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別れてからもう九日の月が出てゐる 山頭火 「行乞記」昭和7年(1932年)8月10日の条に、「Sからの手紙は私を不快にした、それが不純なものでないことは、少くとも彼女の心に悪意のない事はよく解つてゐるけれど、読んで愉快ではなかつた、男の心は女には、殊に彼女のやうな女には酌み取れないらしい、是非もないといへばそれまでだけれど、何となく寂しく悲しくなる。それやこれやで、野を歩きまはつた、歩きまはつてゐるうちに気持が軽くなつた、桔梗一株を見つけてその一株を折つて戻つた、花こそいゝ迷惑だつた!」とあります。 8月2日の条に「七年目ぶりにS家の門をくゞる、東京からのお客さんも賑やかだつた、久しぶりに家庭的雰囲気につゝまれる。伯母、妹、甥、嫁さん、老主人、姪の子ら。」とありますから、掲句はこのS家の伯母か妹かと別れて9日ということでしょう。

山頭火 炎天の電柱をたてようとする二三人 8月9日(旧暦 六月二十三日)水曜日

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炎天の電柱をたてようとする二三人 山頭火 昭和七年(1932年)「八月九日 朝湯のきれいなのに驚かされた、澄んで、澄んで、そして溢れて、溢れてゐる、浴びること、飲むこと、喜ぶこと!野を歩いて持つて帰つたのは、撫子と女郎花と刈萱。夜、椽に茶卓を持ちだして、隣室のお客さんと一杯やる、客はうるさい、子供のやうに。よいお天気だつた、よすぎるほどの。あゝあゝうるさい、うるさい、こんなにしてまで私は庵居しなければならないのか、人はみんなさうだけれど。」([行乞記」) 山頭火は行乞中で下関川棚温泉に居ました。 本当に暑い日が続いています。

芭蕉 高水に星も旅寝や岩の上 8月8日(旧暦 六月二十二日)火曜日 立秋・涼風至(りょうふういたる)

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高水に星も旅寝や岩の上 芭蕉  昨日に続き洪水の句です。元禄六年七月七日(1694年8月8日)、雨の中芭蕉庵を杉風が尋ねきて詠み合った折の芭蕉句です。 「初秋七日ノ雨星ヲ弔フ」と題する真蹟懐紙に、「元禄六、文月七日の夜、白浪銀河の岸をひたして、烏鵲も橋杭を流し、一葉梶吹折るけしき、二星も屋形をうしなふべし。こよひ猶、ただに過さむも、残多しと、一燈かゝげそふる折節、遍照・小町*が哥を吟ずる人有。これによって、この二首を探て、雨星の心をなぐさめむとす。/ 小まちがうた 芭蕉」として、掲句。「遍照がうた  杉風 /  たなばたにかさねばうとしきぬ(絹)合羽 」とあります。 *奈良県の石上寺の詣でた小野小町が翌朝帰ることになり、偶々居合わせた遍照との間で詠み合った「岩の上にたびねをすればいと寒し苔の衣をわれにかさなむ 小町」「世にそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたりねむ 遍照」の歌です。 両句はそれぞれを踏まえて詠まれています。 今日は、立秋。七十二候 涼風至です。なお、元禄六年の立秋は暦上二日前の七月五日でした。

其角 手拭の筐よりもる一葉哉 8月7日(旧暦 六月二十一日)月曜日

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手拭の筐(かたみ)よりもる一葉哉 其角 「艸庵に水つきて住わびける僧を問て」と前書。「花摘」元禄三年七月二日(1690年8月7日)の条の句です。 大雨の時期です。知り合いの僧の庵が水に浸かり見舞に行ったのでしょう。 手拭入れにしていた「筐(かたみ)」は目の細かい竹かごのことですが、「もる」とありますから目は粗かったかもしれません。「一葉」には小舟という意味がありますので、この僧は、もしかしたら周辺も水没し舟による救助がいるくらいの水害に遭った可能性もあります。 現代で言えば、線状降水帯発生による集中豪雨で…

芭蕉 夏の夜や崩て明し冷し物 8月6日(旧暦 六月二十日)日曜日

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夏の夜や崩て明し冷し物 芭蕉   前月下旬から嵯峨落柿舎に滞在していた芭蕉は、膳所に戻った翌日、元禄七年六月十六日(1694年8月6日)曲翠亭にて夜遊の宴、支考らと五吟歌仙を巻きました。掲句はその発句です。脇は曲翠、 露ははらりと蓮の縁先 。 「今宵は六月十六日のそらみずにかよひ、月は東方の乱山にかゝげて、衣装に湖水の秋をふくむ。されば今宵のあそび、はじめより尊卑の席をくばらねど、しばしば酌みてみ(乱)だらず。人そこそこに涼みふして、野を思ひ山をおもふ。(中略)しからば湖の水鳥の、やがてばらばらに立わかれて、いつか此あそびにおなじからむ。去年の今宵は夢のごとく、明年はいまだ来たらず。今宵の興宴何ぞあからさまならん。そぞろに酔てねぶ(眠)るものあらば罰盃の数に水をのませんと、たはぶれあひぬ。」(支考「今宵賦」) 冷し物は夜食に出された冬瓜か、真桑瓜だったか… chatGPT斎 今日の一句   夏の夜 蛍の光 夢に舞う

芭蕉 旅に飽きてけふ幾日やら秋の風 8月5日(旧暦 六月十九日)土曜日

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旅に飽きてけふ幾日やら秋の風 芭蕉 尾張円頓寺で三日月の句を詠んだ芭蕉は、その後鳴海の知足亭に入り貞享五年七月十日(1688年8月5日)鳴海の児玉重辰亭で、知足らと七吟歌仙を巻きます。発句は芭蕉  初秋は海やら田やらみどりかな  脇は重辰  乗行馬の口とむる月  第三、 藁庇霧ほのぐらく茶を酌て  知足でした。芭蕉が小夜の中山辺りで、 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  と詠んだのは貞享元年八月二十日過ぎのことで、重辰、知足ともこの句を踏まえています。貞享元年~二年の「野ざらしの旅」の折にも、芭蕉は鳴海を訪れ*、知足や重辰らと連句を巻いています。 「初秋は」とありますように、貞享五年七月十日は立秋でした。掲句はこの日の吟で、七吟歌仙が満尾したあと詠み連衆の誰かに書き与えたものではないかと思います。「秋立日」と前書した真蹟懐紙が残されています。貞享四年十月二十五日に江戸発足した旅は、9か月目に入っていました。「旅に飽きて」とありますが、芭蕉はこの後更科の月を賞でて八月下旬に江戸に戻り、翌三月におくのほそ道に旅立つのですから、まったく飽きてはいなかったと思います。 chatGPT斎 今日の一句   秋の風 稲穂合せる 収穫歌 *5月6日の条を参照ください。

一茶 助舟に親子おちあふて星むかひ 8月4日(旧暦 六月十八日)金曜日

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助舟に親子おちあふて星むかひ 一茶 「洪水」と前書。享和二年七月七日(1802年8月4日)、江戸での詠と思われます。 この年、大坂では淀川最大の水害と言われます「淀川点野(しめの)切れ」が七月一日に起こるなど、六~七月にかけて全国で水害が相次ぎました。江戸でも下町が大洪水に襲われ、町奉行所などが多くの舟を集め救助のあたり、各地で炊き出しを行ったそうです。  きりぎりすおよぎつき介(たすけ)舟  同じ時の句です。 chatGPT斎 今日の一句   天の川 繋がる宇宙 遠い神話

其角 夕立に独活の葉広き匂哉 8月3日(旧暦 六月十七日)木曜日

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夕立に独活(うど)の葉広き匂哉 其角   「雨中吟」と前書がある「花摘」元禄三年六月二十八日(1690年8月3日)の条の句です。「窓外の畑に作られた独活の葉に、夕立がそゝぐが如く降って、独活独特の好もしい匂ひが、漂って来た風情」との評があります。 昨日から七十二候「大雨時行」、夕立など大雨が降ることの多い時期です。 chatGPT斎 今日の一句   夕立ちや 雨の中歌う カラオケ雲

芭蕉 夕晴や桜に涼む浪の花 8月2日(旧暦 六月十六日)水曜日  大雨時行(たいうときどきふる)

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夕晴(ゆふはれ)や桜に涼む浪の花 芭蕉  曽良旅日記・俳諧書留に「夕に雨止て、船にて潟を廻ル」と前書してあります。 象潟に到着した次の日、元禄二年六月十七日(1698年8月2日)、芭蕉は干満珠寺参詣後、塩越の熊野神社の祭りを見学。夕飯を食べ夕方から船に乗り象潟九十九島巡りをした時の吟です。西行歌「きさがたの桜は波にうづもれて花の上こぐあまのつり舟」を踏まえています。 塩越の庄屋今野又左衛門の弟、嘉兵衛が案内しました。その嘉兵衛に芭蕉が与えた真蹟には「夕方雨やみて、処の何がし舟にて江の中を案内せらるる  ゆふ晴や桜に涼む波の華 」とあります。この句は「おくのほそ道」には収録されませんでしたが、「桜」につきましては「『花の上こぐ』とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。」と本文に記されています。 chatGPT斎 今日の一句   夕涼み 木々がささやく 庭の秘密 今日は七十二候 大雨時行。

芭蕉 きさかたの雨や西施がねぶの花 8月1日(旧暦 六月十五日)火曜日

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きさかたの雨や西施がねぶの花  芭蕉   前日、象潟に向け酒田を発った芭蕉は途中大雨に遭い、昼時でしたが吹浦(ふくら)に宿泊することなりました。翌元禄二年六月十六日(1689年8月1日)雨模様でしたが、羽前・羽後の国境である三崎峠を越え、有耶無耶の関を通過、昼には塩越に到着しました。 芭蕉と曽良は、「衣類借リテ濡衣干ス。」そして、うどんを食べ、「象潟橋迄行テ、雨暮気色ヲミル。」(曽良の旅日記)。とありますように、橋から雨の象潟の景色を眺めました。掲句はその折に詠まれたものと思われます。なお、「おくのほそ道」には、 象潟や雨に西施がねぶの花  の上五を見直した句形で掲載されています。 chatGPT斎 今日の一句   合歓の花 微笑み捧ぐ 夜の涙