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其角 親も子も清き心や蓮売 8月16日(旧暦 七月一日)水曜日

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親も子も清き心や蓮売(はちすうり) 其角 「花はかたみ*に入、葉はあふこ**に荷ひ分て、その労にかはらむといふ。誠切なるあらそひを」と前書があります。 盂蘭盆会の蓮の葉と花を振り売りする親子の、お互いを労わるやり取りへの其角の眼差し。「花摘」元禄三年七月十一日(1690年月16日)の詠です。 *筐(かたみ)、竹で細かく編んだ籠。 ** 朸(おうこ)、荷を担うための棒。天秤棒。

蕪村 秋来ぬと合点させたる嚏かな 8月15日(旧暦 六月二十九日)火曜日

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秋来ぬと合点させたる嚏(くさめ)かな 蕪村 明和五年七月四日(1768年8月15日)、大来堂の会、兼題「立秋」による詠。 古今集の「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(藤原敏行)の「風の音」ならぬ、ハックション!でという趣向ですけど、掲句の3年後に詠んだ一昨日の陰陽師の句の方が格段にいいようです。

其角  生霊酒のさがらぬ祖父かな 8月14日(旧暦 六月二十八日)月曜日

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生霊(イキミタマ)酒のさがらぬ祖父(オホヂ)かな 其角 「花摘」元禄三年七月九日(1690年8月14日)の吟。 生霊(生身魂)は、お盆に死者だけでなく両親とも健在な老親の生きたミタマを子供らが飲食で供養する行事。生盆とも。七月八日から十五日にかけて日本各地で行われていたといいます。 掲句は、其角が子供のころのお盆の思い出だと思います。自分自身の大酒は祖父譲りだと嘯き、豪快に盃を傾けながら詠んだものでしょう。

蕪村  秋たつや何におどろく陰陽師 8月13日(旧暦 六月二十七日)日曜日 寒蝉鳴(かんぜみなく)

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秋たつや何におどろく陰陽師 蕪村 明和八年七月三日(1771年8月13日) 高徳院での「立秋」による題詠。初形は上五「今日の秋」。ただし、この年の立秋は六月二十七日でした。 陰陽師は驚いているのか、いないのか? 観念的ですが、天文学はじめ陰陽道により森羅万象に通暁している「陰陽師」にとって、何も驚くようなことはないというおかしみ詠んでいるように思えます。 同日吟に、 貧乏に追い付かれたり今朝の秋  があります。着の身着のままで過ごせた夏が終わり、これからの季節に向けた支度に着物やら蒲団やらを質屋から請け出さなくてはといった庶民感覚の立秋の朝です。「蕪村句集」では  貧乏に追いつかれけりけさの朝  に、そして『蕪村自筆句帳」で  貧乏に追いつかれけれけさの秋  と「貧乏にこそ」の「こそ」が省略された形に直されています。

其角 七夕や暮露よび入れて笛をきく 8月12日(旧暦 六月二十六日)土曜日

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七夕や暮露(ぼろ)よび入れて笛をきく 其角    「花摘」元禄三年七月七日(1690年8月12日)の条の句。「秋風楽を所望して」と前書があります。 暮露とは有髪の乞食坊主のことで、通りを流す尺八を吹く虚無僧か、もしかしたら一節切(ひとよぎり)の奏者かを呼び込んで、俗曲ではない「秋風楽」という雅楽をリクエストしてたのです。 七夕を肴の酒席だったのでしょうが、「暮露」の雅楽を聴いて源氏物語の「 乞巧奠( きこうでん)」だと面白がったのかもしれません。

芭蕉 秋ちかき心の寄や四畳半 8月11日(旧暦 六月二十五日)金曜日

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秋ちかき心の寄や四畳半 芭蕉  「元禄七年六月二十一日大津木節*庵にて」と前書があります。同日(1694年8月11日)、惟然、支考と巻いた四吟歌仙の発句です。脇は木節の  しどろに伏せる撫子の露。 元禄七年は閏五月があり、立秋は六月十六日でしたから「秋」と詠んでもよかったのですが、芭蕉はあえて六月二十一日で「秋ちかき・ちかき心の寄や」と詠んだのだと思います。この日は芭蕉に近しい女性だった寿貞尼の三七日に当たり、木節の配慮もあり四畳半の茶室で寿貞尼を偲ぶ会として開催されたようです。なお、「寄」の読みは「ヨル」が通説となっていますが、土芳は「ヨリ」であると直接芭蕉から聞いたと書き残しているそうです。 *木節は大津の医師で、この4か月後に大坂で芭蕉の最期をみとることになります。

山頭火 別れてからもう九日の月が出てゐる 8月10日(旧暦 六月二十四日)木曜日

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別れてからもう九日の月が出てゐる 山頭火 「行乞記」昭和7年(1932年)8月10日の条に、「Sからの手紙は私を不快にした、それが不純なものでないことは、少くとも彼女の心に悪意のない事はよく解つてゐるけれど、読んで愉快ではなかつた、男の心は女には、殊に彼女のやうな女には酌み取れないらしい、是非もないといへばそれまでだけれど、何となく寂しく悲しくなる。それやこれやで、野を歩きまはつた、歩きまはつてゐるうちに気持が軽くなつた、桔梗一株を見つけてその一株を折つて戻つた、花こそいゝ迷惑だつた!」とあります。 8月2日の条に「七年目ぶりにS家の門をくゞる、東京からのお客さんも賑やかだつた、久しぶりに家庭的雰囲気につゝまれる。伯母、妹、甥、嫁さん、老主人、姪の子ら。」とありますから、掲句はこのS家の伯母か妹かと別れて9日ということでしょう。

山頭火 炎天の電柱をたてようとする二三人 8月9日(旧暦 六月二十三日)水曜日

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炎天の電柱をたてようとする二三人 山頭火 昭和七年(1932年)「八月九日 朝湯のきれいなのに驚かされた、澄んで、澄んで、そして溢れて、溢れてゐる、浴びること、飲むこと、喜ぶこと!野を歩いて持つて帰つたのは、撫子と女郎花と刈萱。夜、椽に茶卓を持ちだして、隣室のお客さんと一杯やる、客はうるさい、子供のやうに。よいお天気だつた、よすぎるほどの。あゝあゝうるさい、うるさい、こんなにしてまで私は庵居しなければならないのか、人はみんなさうだけれど。」([行乞記」) 山頭火は行乞中で下関川棚温泉に居ました。 本当に暑い日が続いています。

芭蕉 高水に星も旅寝や岩の上 8月8日(旧暦 六月二十二日)火曜日 立秋・涼風至(りょうふういたる)

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高水に星も旅寝や岩の上 芭蕉  昨日に続き洪水の句です。元禄六年七月七日(1694年8月8日)、雨の中芭蕉庵を杉風が尋ねきて詠み合った折の芭蕉句です。 「初秋七日ノ雨星ヲ弔フ」と題する真蹟懐紙に、「元禄六、文月七日の夜、白浪銀河の岸をひたして、烏鵲も橋杭を流し、一葉梶吹折るけしき、二星も屋形をうしなふべし。こよひ猶、ただに過さむも、残多しと、一燈かゝげそふる折節、遍照・小町*が哥を吟ずる人有。これによって、この二首を探て、雨星の心をなぐさめむとす。/ 小まちがうた 芭蕉」として、掲句。「遍照がうた  杉風 /  たなばたにかさねばうとしきぬ(絹)合羽 」とあります。 *奈良県の石上寺の詣でた小野小町が翌朝帰ることになり、偶々居合わせた遍照との間で詠み合った「岩の上にたびねをすればいと寒し苔の衣をわれにかさなむ 小町」「世にそむく苔の衣はただ一重かさねばうとしいざふたりねむ 遍照」の歌です。 両句はそれぞれを踏まえて詠まれています。 今日は、立秋。七十二候 涼風至です。なお、元禄六年の立秋は暦上二日前の七月五日でした。

其角 手拭の筐よりもる一葉哉 8月7日(旧暦 六月二十一日)月曜日

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手拭の筐(かたみ)よりもる一葉哉 其角 「艸庵に水つきて住わびける僧を問て」と前書。「花摘」元禄三年七月二日(1690年8月7日)の条の句です。 大雨の時期です。知り合いの僧の庵が水に浸かり見舞に行ったのでしょう。 手拭入れにしていた「筐(かたみ)」は目の細かい竹かごのことですが、「もる」とありますから目は粗かったかもしれません。「一葉」には小舟という意味がありますので、この僧は、もしかしたら周辺も水没し舟による救助がいるくらいの水害に遭った可能性もあります。 現代で言えば、線状降水帯発生による集中豪雨で…

芭蕉 夏の夜や崩て明し冷し物 8月6日(旧暦 六月二十日)日曜日

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夏の夜や崩て明し冷し物 芭蕉   前月下旬から嵯峨落柿舎に滞在していた芭蕉は、膳所に戻った翌日、元禄七年六月十六日(1694年8月6日)曲翠亭にて夜遊の宴、支考らと五吟歌仙を巻きました。掲句はその発句です。脇は曲翠、 露ははらりと蓮の縁先 。 「今宵は六月十六日のそらみずにかよひ、月は東方の乱山にかゝげて、衣装に湖水の秋をふくむ。されば今宵のあそび、はじめより尊卑の席をくばらねど、しばしば酌みてみ(乱)だらず。人そこそこに涼みふして、野を思ひ山をおもふ。(中略)しからば湖の水鳥の、やがてばらばらに立わかれて、いつか此あそびにおなじからむ。去年の今宵は夢のごとく、明年はいまだ来たらず。今宵の興宴何ぞあからさまならん。そぞろに酔てねぶ(眠)るものあらば罰盃の数に水をのませんと、たはぶれあひぬ。」(支考「今宵賦」) 冷し物は夜食に出された冬瓜か、真桑瓜だったか… chatGPT斎 今日の一句   夏の夜 蛍の光 夢に舞う

芭蕉 旅に飽きてけふ幾日やら秋の風 8月5日(旧暦 六月十九日)土曜日

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旅に飽きてけふ幾日やら秋の風 芭蕉 尾張円頓寺で三日月の句を詠んだ芭蕉は、その後鳴海の知足亭に入り貞享五年七月十日(1688年8月5日)鳴海の児玉重辰亭で、知足らと七吟歌仙を巻きます。発句は芭蕉  初秋は海やら田やらみどりかな  脇は重辰  乗行馬の口とむる月  第三、 藁庇霧ほのぐらく茶を酌て  知足でした。芭蕉が小夜の中山辺りで、 馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり  と詠んだのは貞享元年八月二十日過ぎのことで、重辰、知足ともこの句を踏まえています。貞享元年~二年の「野ざらしの旅」の折にも、芭蕉は鳴海を訪れ*、知足や重辰らと連句を巻いています。 「初秋は」とありますように、貞享五年七月十日は立秋でした。掲句はこの日の吟で、七吟歌仙が満尾したあと詠み連衆の誰かに書き与えたものではないかと思います。「秋立日」と前書した真蹟懐紙が残されています。貞享四年十月二十五日に江戸発足した旅は、9か月目に入っていました。「旅に飽きて」とありますが、芭蕉はこの後更科の月を賞でて八月下旬に江戸に戻り、翌三月におくのほそ道に旅立つのですから、まったく飽きてはいなかったと思います。 chatGPT斎 今日の一句   秋の風 稲穂合せる 収穫歌 *5月6日の条を参照ください。

一茶 助舟に親子おちあふて星むかひ 8月4日(旧暦 六月十八日)金曜日

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助舟に親子おちあふて星むかひ 一茶 「洪水」と前書。享和二年七月七日(1802年8月4日)、江戸での詠と思われます。 この年、大坂では淀川最大の水害と言われます「淀川点野(しめの)切れ」が七月一日に起こるなど、六~七月にかけて全国で水害が相次ぎました。江戸でも下町が大洪水に襲われ、町奉行所などが多くの舟を集め救助のあたり、各地で炊き出しを行ったそうです。  きりぎりすおよぎつき介(たすけ)舟  同じ時の句です。 chatGPT斎 今日の一句   天の川 繋がる宇宙 遠い神話

其角 夕立に独活の葉広き匂哉 8月3日(旧暦 六月十七日)木曜日

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夕立に独活(うど)の葉広き匂哉 其角   「雨中吟」と前書がある「花摘」元禄三年六月二十八日(1690年8月3日)の条の句です。「窓外の畑に作られた独活の葉に、夕立がそゝぐが如く降って、独活独特の好もしい匂ひが、漂って来た風情」との評があります。 昨日から七十二候「大雨時行」、夕立など大雨が降ることの多い時期です。 chatGPT斎 今日の一句   夕立ちや 雨の中歌う カラオケ雲

芭蕉 夕晴や桜に涼む浪の花 8月2日(旧暦 六月十六日)水曜日  大雨時行(たいうときどきふる)

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夕晴(ゆふはれ)や桜に涼む浪の花 芭蕉  曽良旅日記・俳諧書留に「夕に雨止て、船にて潟を廻ル」と前書してあります。 象潟に到着した次の日、元禄二年六月十七日(1698年8月2日)、芭蕉は干満珠寺参詣後、塩越の熊野神社の祭りを見学。夕飯を食べ夕方から船に乗り象潟九十九島巡りをした時の吟です。西行歌「きさがたの桜は波にうづもれて花の上こぐあまのつり舟」を踏まえています。 塩越の庄屋今野又左衛門の弟、嘉兵衛が案内しました。その嘉兵衛に芭蕉が与えた真蹟には「夕方雨やみて、処の何がし舟にて江の中を案内せらるる  ゆふ晴や桜に涼む波の華 」とあります。この句は「おくのほそ道」には収録されませんでしたが、「桜」につきましては「『花の上こぐ』とよまれし桜の老木、西行法師の記念(かたみ)をのこす。」と本文に記されています。 chatGPT斎 今日の一句   夕涼み 木々がささやく 庭の秘密 今日は七十二候 大雨時行。

芭蕉 きさかたの雨や西施がねぶの花 8月1日(旧暦 六月十五日)火曜日

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きさかたの雨や西施がねぶの花  芭蕉   前日、象潟に向け酒田を発った芭蕉は途中大雨に遭い、昼時でしたが吹浦(ふくら)に宿泊することなりました。翌元禄二年六月十六日(1689年8月1日)雨模様でしたが、羽前・羽後の国境である三崎峠を越え、有耶無耶の関を通過、昼には塩越に到着しました。 芭蕉と曽良は、「衣類借リテ濡衣干ス。」そして、うどんを食べ、「象潟橋迄行テ、雨暮気色ヲミル。」(曽良の旅日記)。とありますように、橋から雨の象潟の景色を眺めました。掲句はその折に詠まれたものと思われます。なお、「おくのほそ道」には、 象潟や雨に西施がねぶの花  の上五を見直した句形で掲載されています。 chatGPT斎 今日の一句   合歓の花 微笑み捧ぐ 夜の涙

蕪村 羅に遮る蓮のにほひ哉 7月31日(旧暦 六月十四日)月曜日

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羅(うすもの)に遮(さへぎ)る蓮(れん)のにほひ哉   蕪村 「 座主の御子の、あなかまとてやをらたち入給ひける、いとたふとくて」 と前書があります。 安永五年六月十六日(1776年7月31日)夜半亭句会、兼題「蓮」による吟詠です。 戸を明て蚊帳に蓮(はちす)のあるじ哉 も同日吟ですが、掲句では「あるじ」が一気に偉くなって天台座主の法親王という設定で、庭前の蓮を題にして句会か歌仙を巻いているところへ、法親王が御簾をあげて「おや、おやかましいことどすなぁ」と闖入されたのです。そのご様子がなんとも尊くて、うすものに隔てられた蓮が匂ってくる。眼前のような仕立てです。「蓮」は「れん」と読ませ「簾」を掛けています。 自成庵謝幾 今日の一句   うすものの とんぼう一匹 無重力 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年07月」の「七月十三日」欄からの引用です。 うすものの息づくところ透くところ     大竹きみ江 ひもで腰をしめ、帯で形をととのえると急に息づかいが目に立つ女の夏姿。絽、紗、上布、明石、透きや、など今の若い人がご存知かどうか。 「 大竹きみ江集」 自註現代俳句シリーズ三( 八)

芭蕉 涼しさや海に入れたる最上川 7月30日(旧暦 六月十三日)日曜日

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涼しさや海に入たる最上川 芭蕉   鶴岡から舟で酒田に入った芭蕉は、「淵庵不玉(伊藤玄順のこと)と云医師(くすし)の許を宿とす。」翌、元禄二年六月十四日(1689年7月30日)、寺島彦助(安種亭令道、詮道)邸に招かれ、不玉らを連衆とした七吟俳諧興行*がありました。掲句はその折の発句で、脇は詮道の「月をゆりなす浪のうきみる(浮海松)」 「おくのほそ道」には、上五を直し「 暑き日を海にいれたり最上川 」が掲載されています。 *本興行については、曽良の旅日記俳諧書留にある七句のみ伝わり、「末略ス」と曽良は記しています残りの句は発見されていないようです。 今日は土用の丑の日です。 自成庵謝幾 今日の一句   冬銀河 船行くあとの 海に入る

芭蕉 ありとあるたとへにも似ず三日の月 7月29日(旧暦 六月十二日)土曜日

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ありとあるたとへにも似ず三日の月  芭蕉 「尾張円頓寺にて」との前書があります。笈の小文の旅を五月下旬いったん終え芭蕉は、京を経て、大津、岐阜等に滞在したあと、元禄元年七月三日(1688年7月29日)、尾張広井村八軒屋敷(現在の名古屋市西区那古野辺り)の長久山円頓寺に在って、この句を詠みました。円頓寺は名古屋駅にほど近い那古野に今も残りますが、当時より300mほど北に移転しているそうです。 掲句は推敲され、元禄二年(1689年)出版の荷兮編「阿羅野」巻之一、「月三十句」の内「二日  見る人もたしなき月の夕かな  荷兮」に続けて「三日  何事の見たてにも似ず三かの月  芭蕉」として収録されています。じつは「阿羅野」巻之五「初冬」にも、荷兮は別の二日月の句を掲載。「 こがらしに二日の月のふきちるか 」荷兮の自信作です。 どう「三日月」を詠むか、以前から芭蕉と名古屋の連衆との間には歌仙等でのこだわり、もしかして確執のようなものがあったのかもしれません。 貞享元年(1684年)野ざらしの旅で名古屋の荷兮らと巻いた歌仙のうち、杜国の発句「 つゝみかねて月とり落とす霽(しぐれ)かな 」歌仙の裏の月の座で、芭蕉は「 三ケ月の東は暗く鐘の声 」と「三日月」を詠みました。 貞享三年(1686年)秋、芭蕉が「 明行や二十七夜も三日の月 」と詠んでみせたことは、名古屋にも聞こえていたでしょう。貞享四年(1687年)10月江戸を出立して笈の小文の旅を始めた芭蕉が11月岐阜落梧亭で巻いた「凩の」三十句において、二十六句目に荷兮は「 女師走の月とちぎるか 」という奇矯な句を付けています。そして、同年12月熱田での如行、桐葉との三吟半歌仙「旅人と」の第十四句目に芭蕉は「 三ケ月細く節句しりけり 」と詠みました。 自成庵謝幾 今日の一句   三日月の 生きる意味問う 樹下の石

其角 焼鎌を背に暑し田艸取 7月28日(旧暦 六月十一日)金曜日 土潤溽暑(つちうるおいてじょくしょす)

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  焼鎌を背に暑し田艸取 其角 「憫農(のうをあはれむ)」と前書があります。「花摘」元禄三年六月二十二日(1690年7月28日)の条の句です。鎌を後ろ帯に差して、腰を曲げて水田の草取りをしている農民の背に、鉄の刃が夏の日差しに焼け付いたようにぎらついていたのでしょう。 其角には、三囲神社で雨乞い祈祷中農民と一緒になってよんだ  夕立や田を三囲の神ならば  もあり、其角の農民へのまなざしはやさしい。 今日は七十二候の土潤溽暑、土の湿り気が蒸発し蒸し暑い気候です。 自成庵謝幾 今日の一句   百年の 届かぬ想い 草を取る 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年06月」の「六月十日」欄からの引用です。 みちのくの 白(はく)一点 の 田 草 取 り   杉 良介 このころ東北出張が多かった。除草剤のおかげであの苦役から解放されたようだが、ときに草取りの姿もみた。 「杉 良介集」 自註現代俳句シリーズ九( 七)

其角 秋鳴スさゝら太鼓や夏神楽  7月27日(旧暦 六月十日)木曜日

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秋鳴(なら)スさゝら太鼓や夏神楽 其角   「市中の光陰は、ことさらにいそがはしきを」との前書があります。「花摘」元禄三年六月二十一日(1690年7月27日)の条の句です。 夏神楽は六月晦日の「夏越しの祓」の際に奉納され、本来秋を知らしめるささらや太鼓の音なのですが、早もう鳴っているよ夏神楽といったところでしょうか。穢れを清める茅の輪くぐりが6月の中頃から始められことが多いように、夏神楽もその頃から市中を練り歩き店先や門口でお祓い舞をしていたのでしょう。前書はそのような忙しさと共に、今年になってもう半年過ぎたのか、去年からもう一年たったのかという月日の経つ早さに改めて思いを致して。 なお、この年の六月晦日には、 夏祓御師(おし)の宿札たづねけり  と其角は詠んでいます。お祓いしてもらうために呼びに行ったのでしょうか。 自成庵謝幾 今日の一句   町に入る 音さまざまに 夏神楽 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年06月」の「六月二十九日」欄からの引用です。 肘 ぬれて 雨 の 形代流 しけり 本多静江 形代は男女別ある切り絵の人形。己が名を書き、患部などにこすって流す。茅の輪と共に夏祓の行事。鯖江では川に遠く、篝火に投じて焼く。 「本多静江集」 自註現代俳句シリーズ四( 四五)

芭蕉 めづらしや山をいで羽の初茄子 7月26日(旧暦 六月九日)水曜日

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めづらしや山をいで羽の初茄子 芭蕉 元禄二年六月十日(1689年7月26日)、芭蕉は、本坊でお昼い蕎麦やお酒をごちそうになり、14時ごろ鶴岡に向かいます。露丸同行で道々「小雨ス。ヌルゝニ不及。申ノ刻、鶴ヶ岡長山五良右衛門宅に至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル」(曽良「旅日記」)にあります発句が、掲句です。 所望した粥に、添えられていた茄子がきっと冷っとして美味しかったのでしょう。脇は、長山五良右衛門重行付けて「蝉に車の音添る井戸」です。冷たい井戸水で冷やしていた初茄子です。 自成庵謝幾 今日の一句   初茄子 すぐそこにある 古人の句

芭蕉 春を経し七ツの年の力石 7月25日(旧暦 六月八日)火曜日

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春を経し七ツの年の力石 芭蕉   7月20日に紹介しました「おくのほそ道」羽黒山での「有難(ありがた)や」歌仙は、月山登山を挟みながら詠み継がれ、元禄二年六月九日(1689年7月25日)、二折目(19句目)芭蕉の掲句から再開します。歌仙の平句ですから、季は前句「 的場のすゑに咲る山吹 釣雪 」を受けて春です。20句目は呂(露)丸のが「 汲ていただく醒ヶ井の水 」と付けています。 七つの時に持ち上げた力石が年経て境内などにある様子を詠んでいます。歌仙中断の間、芭蕉は湯殿山でたくさんの奉納された力石を見たのかもしれません。 同日の曽良の旅日記の条に「花ノ句ヲ進テ、俳、終。」とありますように、羽黒山別当代会覚が35句目「 盃のさかなに流す花の浪 」と詠み、いよいよ歌仙は満尾することとなります。揚句は「 幕うち揚るつばくらの舞 梨水 」、梨水は地元羽黒の俳人だそうです。 自成庵謝幾 今日の一句   少年の 軽き寝息や ハローウィン

其角 抱籠や妾かゝえてきのふけふ 7月24日(旧暦 六月七日)月曜日

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抱籠や妾かゝえてきのふけふ 其角 「花摘」元禄三年六月十八日(1690年7月24日)の条の句。 昨日今日、連日35℃を越える猛暑です。その中、妾が抱籠を抱えて…、もしかして、この暑いにもかかわらず、俺は妾抱えて…、なのかもしれません。 「抱籠」は、竹で編んだ夏の夜涼をとるための籠で、「竹婦人」とも呼ばれます。蕪村の句に、  褒居士(ほうこじ)はかたい親父よ竹婦人  天にあらば比翼の籠や竹婦人  があります。褒(龐)居士は唐時代の禅者で、娘と竹の籠などを売って暮らしていたそうです。 最近、chatGPT斎、Bing亭ともスランプの為、新たに自成庵謝幾(jhaiku)に登場してもらいます。 自成庵謝幾 今日の一句   せせらぎの いささか濡れし かたつむり 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年07月」の「七月二十八日」欄からの引用です。 くびれたるところがかたし竹婦人  小原啄葉 竹婦人は抱いても足をもたせても涼しい。ただ、くびれた編目のところが少しかたかった。 「 小原啄葉集」 自註現代俳句シリーズ・続篇一九

芭蕉 語れぬ湯殿にぬらす袂哉 7月23日(旧暦 六月六日)日曜日 大暑・桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)

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語れぬ湯殿にぬらす袂哉 芭蕉 月山山頂の「角兵衛小ヤ」に泊まった芭蕉と曽良が、じつは楽しみにしていたことがあったようです。しかし、「雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦(あした)ニハ西ニ有由也。」と旅日記に残しているように、「ブロッケン現象」は、夕も朝も晴れてしまい見ることができませんでした。 (写真はPHOTOHITOサイトchancoさん撮影) 「臥して明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。谷の傍に鍛冶小屋と云有。」この日、元禄二年六月七日(1689年7月23日)湯殿山神社本宮を参詣し、昼頃月山山頂に戻り、「及暮、南谷ニ帰。甚労ル。」と旅日記にあります。羽黒山から月山山頂往復約60km、高低差1900m、月山山頂から湯殿山神社本宮往復約8km、高低差700m。1泊2日ですから、驚くほどの健脚です。 この日、芭蕉は掲句を、曽良も、 銭踏て世を忘れけりゆどの道  と詠みました。曽良の句は、後に芭蕉によって  湯殿山銭ふむ道の泪かな  と直され「おくのほそ道」に収録されます。 今日は、二十四節気 大暑、七十二候 桐始結花 chatGPT斎 今日の一句   足裏の 大地の大暑 踏みしめる  

芭蕉 雲の峰幾つ崩レて月の山 7月22日(旧暦 六月五日)土曜日

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雲の峰幾つ崩レて月の山 芭蕉 「おくのほそ道」に、「八日、月山にのぼる。(略) 雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻(いた)れば、日没て月顕る。」とありますが、実際に月山に登ったのは元禄二年六月六日(1689年7月22日)のことでした。 山頂には月山神社本宮(月山権現)と参拝者の為の泊り小屋がいくつかありました。 この日曽良は、 三ケ月や雪にしらけし雲峰  と詠んでいます。芭蕉の  涼しさやほの三か月の羽黒山  の原句と思われる  涼風やほの三ケ月の羽黒山  も同日詠の可能性が高そうです。 chatGPT斎 今日の一句    大坊主 無我か迷路か 雲の峰

其角 切ラレたる夢は誠か蚤の跡 7月21日(旧暦 六月四日)金曜日

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切ラレたる夢は誠か蚤の跡 其角 「 怖(オソロシキ)夢を見て」と前書*があります。 去來曰、「其角は誠に作者にて侍る。わづかにのみの喰つきたる事、たれかかくは謂つくさん 。」先師曰「 しかり。かれは定家の卿也 。『さしてもなき事を、ことごとしくいひつらね侍る。』ときこへし評に似たり 。」(「去来抄」の「先師評」)と、驚いた去来に対して芭蕉が評したという其角の有名句です。 花摘の元禄三年六月十六日(1890年7月21日)の条での詠です。 *「五元集」での前書は、「いきげさにずてんどうとうちはなされたるがさめて後」とあります。「いきげさ」は「袈裟懸け」、「ずてんどう」は「ずってんどう」「ずでんどう」とも。激しく倒れるさま。 chatGPT斎 今日の一句   複眼の 夢映し出す 夏の虚実 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2022年07月」の「七月十四日」欄からの引用です。 暑き 夜 や 夢 見 み つつ 夢作 りつつ 相馬遷子 暑い夜の眠り、それは浅い眠りである。夢のつづきを自分で作りながら眠っている。半ば覚醒、半ば睡眠の状態である。一種の創作なのだが、目がさめると夢の筋は忘れてしまう。(堀口星眠) 「相馬遷子集」 脚註名句シリーズ一( 一〇)

芭蕉 有難や雪をかほらす風の音 7月20日(旧暦 六月三日)木曜日 土用入

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有難や雪をかほらす風の音 芭蕉 おくのほそ道に、「四日、本坊にをゐて俳諧興行。/  有難や雪をかほらす南谷 」とある句の元の句です。南谷は羽黒山別当寺の別院で、当時別当代会覚阿闍梨の住まいでした。 新庄を発った芭蕉は、本合海で風流紹介の船宿から最上川を下ります。いい天気でした。船番所のある古川の船宿にも風流の紹介状があり、出手形も新庄で用意してもらっていたのでスムーズに関所を越え、船を乗り継ぎ仙人堂や白糸の滝を右に見ながら清川に向かいました。しかし清川の鶴岡藩の番所では、紹介状なしでは「船ヨリアゲズ。一り半、雁川」まで行き上陸、16時ごろ羽黒山手向荒町の近藤左吉(露丸)宅に到着しました。 翌日、元禄二年六月四日(1689年7月20日)芭蕉は会覚に謁見の後、本坊において掲句を発句に八吟歌仙興行を始めました。脇は露丸、  住程人のむすぶ夏草  第三は曽良、 川船のつなに蛍を引立て   歌仙は、この日表六句にて中断、翌日に持ち越しました。 今日は夏の土用入です。因みに元禄二年の暦では六月二日が土用入でした。 chatGPT斎 今日の一句   雪渓の 熊の跡白し 永久   以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2022年06月」の「六月二十八日」欄からの引用です。 芭 蕉再 び 来 ずを 待 つかに 守宮 ( やもり) 老 ゆ 林 昌華 奥の細道の一部を遡行し、羽黒山を訪う。芭蕉が「有難や雪をかをらす南谷」と詠み、出羽三山巡礼の本拠となった南谷の遺跡においての作。 「林 昌華集」 自註現代俳句シリーズ四( 三七)

山頭火 てふてふひらひらいらかをこえた 7月19日(旧暦 六月二日)水曜日

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てふてふひらひらいらかをこえた 山頭火 「旅日記」 昭和11年(1936)7月19日の条に、 平泉 ここまで来しを水飲んで去る 、永平寺 てふてふひらひらいらかをこえた など多数の句が記されています。 山頭火は、この年3月の初め神戸を皮切りに関西、東海、東京、信濃寺、北陸道からおくのほそ道等を漂泊し、7月中旬大阪から竹原まで帰っていました。そして18日生野島に渡り一泊、19日夕方竹原に戻っています。 永平寺に参篭したのは7月4日から9日でしたので、掲句が詠まれたのはそれから19日までの間となりますが、どうも参篭中のではないように思います… 同じ日の条に、「 竹原 生野島」として /  萩とすすきとあをあをとして十分  /  すずしく風は萩の若葉をそよがせてそして  /  そよかぜの草の葉からてふてふうまれて出た  / などの句があり、このそよかぜの草の葉から生まれた「てふてふ」が永平寺の屋根を越えたのではないでしょうか。 chatGPT斎 今日の一句   蝶の脚 踏みしめる道 の悠然

芭蕉 風の香も南に近し最上川 7月18日(旧暦 六月一日)火曜日 鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)

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風の香も南に近し最上川 芭蕉 風流亭の翌日、元禄二年六月二日(1689年7月18日)風流の本家である渋谷九郎兵衛宅(盛信亭*)に招かれて、どういう訳か風流の発句( 御尋ねに我宿せばし破れ蚊や )で七吟歌仙**を巻きます。この歌仙はあまりうまく運ばなかったようです。満尾後に仕切り直しかのように改めて芭蕉は、当主の息子である柳風と歌仙途中参加ながら連衆最多の六句を詠んだ木端とで、掲句を発句に三ツ物を巻きました。 風の香も南に近し最上川 芭蕉 /  小家の軒を洗ふ夕立 柳風  /  物もなく麓は霧に埋て 木端 *写真は新庄市の盛信亭跡の標柱です。道路の向こう側に見える森金物店あたりが風流亭跡です。 **脇句は芭蕉、 はじめてかほる風の薫物   曽良は四句目、 霧立かくす虹のもとすゑ  と付けています。 今日は七十二候 鷹乃学習。鷹の子が飛ぶ事を覚え巣立つ頃ですが、残念ながら鷹にはそう簡単にお目に掛かれません。 chatGPT斎 今日の一句   ふわり舞う 恋の行衛の 風の香よ