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一茶 蛙鳴き鶏なき東しらミけり 4月29日(旧暦 三月十日)土曜日

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蛙(かはづ)鳴き鶏なき東しらミけり 一茶 寛政七年三月の「十一日、いそぎつるまゝに十二里、有年に泊」と「西国紀行」にあり、同日は1795年4月29日(すなわち228年前の今日)にあたります。 永らく讃岐、伊予に滞在・漂白していた一茶は、三月八日丸亀より船で備前の国に渡り岡山*を経由、二本松から大坂へ向かう途中です「十日、道連に豊前の僧二人あれば、未明に出立して、途中吟/ 蛙鳴き鶏なき東しらミけり」とあり、掲句は、残念ながら今日ではなくて昨日、二本松を出立して詠まれたものです。 *「九日、備前岡山に至ル。此地の風流好るものゝ粗(あらあら)ありといえ共、派違なれば尋ねず。城下一里離れて、二本松の泊。」と一茶は書き残しています。岡山俳壇は美濃派の牙城だったようです。なお、 二本松は、現在、岡山市中区藤原にバス停名として残っています。有年は現在の兵庫県赤穂市有年です。 chatGPT斎 今日の一句    蛙鳴く 暁の池の 静けさ

芭蕉 行春にわかの浦にて追付たり 4月30日(旧暦 三月十一日)日曜日  牡丹華(ぼたんはなさく)*

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 行(ゆく)春にわかの浦にて追付(つい)たり 芭蕉 貞享五年三月三十日(1688年4月30日、335年前の今日)、3月尽すなわち暦で春尽きる日に和歌の浦で詠まれたと考えられる句です。「笈の小文」に芭蕉は、「和歌」と前書してこの「発句」を記しています。ちょっとユーモアが感じられませんか… 「笈の小文」では、掲句のあとに「紀三井寺」と前書風に書かれ発句はありませんが、「見あぐればさくらしまふて紀三井寺」という句が伝えられています。「菊苗集」(文化七年刊1810年)に紀三井寺の翁塚の句として収録されているそうです。現在、同寺には芭蕉像と共に句碑が建立されていますが、残念なことにこの句は存疑句とされています。 *貞享暦の七十二候では、「霜止出苗(しもやんでなえいず)」でした。 chatGPT斎 今日の一句   波音に溶け 鳥の声遠く 暮春 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年04月」の「四月九 日」欄からの引用です。 はなびらのつけねのいろもはるのはて 落合水尾 暮春。春たけてゆく陽光を浴びて、花びらの付け根の色が鮮明。そこにも春の終りのたぎるような叙情を見た。 「 落合水尾集」 自註現代俳句シリーズ六( 三四)

一茶 雉鳴いて梅に乞食の世也けり 4月28日(旧暦 三月九日)金曜日

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  雉鳴いて梅に乞食の世也けり 一茶   「ことし寛政三年三月二十六日、江戸をうしろになして、おぼつかなくも立出る。小田の蛙ハ春しりがほに騒ぎ、木末の月ハ有明をかすミて、忽旅めくありさま也。」(一茶「寛政三年紀行」) 寛政三年三月二十六日(1791年4月28日すなわち232年前の今日)江戸での吟、一茶29歳。江戸からいったん下総に立ち寄ってのち、生まれ故郷の信州柏原に帰る旅*たちの日です。柏原は、北国街道越後に近い雪深い宿駅です。 おくのほそ道の旅立ち「弥生も末の七日」、「月は有明にて」、「花の梢」、「ことし元禄二とせにや」などを一茶は踏まえています。「途中に立ちならびて」芭蕉を見送った人々は、ここでは「小田の蛙」となって一茶を見送り、一茶は「忽旅めくありさま」。旅立って23日目に「白河の関にかかりて旅心定まりぬ」芭蕉でしたのに… *一宿一飯を乞いながらの乞食のような旅。 chatGPT斎 今日の一句   雉鳴くや 谷間の夜に 香を立てる

芭蕉 ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 4月27日(旧暦 三月八日)木曜日

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ちゝはゝのしきりにこひし雉の声 芭蕉    「よしのに三日とどまりて」、貞享五年三月二十七日(1688年4月27日)頃の高野山での吟。「笈の小文」に「高野」と前書して掲句と「 散る花に髻はづかし奥の院  万菊」が載っています。 また、「高野登山端書」と呼ばれる芭蕉の俳文が伝わっています。「高野のおくにのぼれば、(略)春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼くにも腸(はらわた)を破るばかりにて、御庿(ごびょう)を心しずかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたず)みて倩(つらつら)おもふやうあり。此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつめれと、袂もせきあへず、そぞろにこぼるゝ涙をとどめて、/父母*のしきりに恋し雉の声」 * 行基の釈教歌「山鳥のほろほろと啼く声きけば父かととぞ思ふ母かとぞ思ふ」に拠るといわれています。しかし典拠かもしれない歌がほかにもあります。高野山から和歌の浦へのほぼ中間あたりにある西国三十三か所第3番の名刹、粉河寺のご詠歌は「父母 の恵みも深き粉河寺 佛の誓ひ たのもしの身や」です。 芭蕉一行が立ち寄ったかどうかはわかりませんが、元禄四年きりにこひし雉の声 芭蕉    「よしのに三日とどまりて」、貞享五年三月二十七日(1688年4月27日)頃の高野山での吟。「笈の小文」に「高野」と前書して掲句と「散る花に髻はづかし奥の院 万菊」が載っています。 また、「高野登山端書」と呼ばれる芭蕉の俳文が伝わっています。「高野のおくにのぼれば、(略)春の花は、寂寞の霞の空に匂ひておぼえ、猿の声、鳥の啼くにも腸(はらわた)を破るばかりにて、御庿(ごびょう)を心しずかにをがみ、骨堂のあたりに彳(たたず)みて倩(つらつら)おもふやうあり。此処はおほくの人のかたみの集れる所にして、わが先祖の鬢髪をはじめ、したしきなつかしきかぎりの白骨も、此内にこそおもひこめつめれと、袂もせきあへず、そぞろにこぼるゝ涙をとどめて、/父母*のしきりに恋し雉の声」 * 行基の釈教歌「山鳥のほろほろと啼く声きけば父かととぞ思ふ母かとぞ思ふ」に拠るといわれています。しかし典拠かもしれない歌がほかにもあります。高野山から和歌の浦へのほぼ中間あたりにある西国三十三か所第3番の名刹、粉河寺のご詠歌は「父母の恵みも深き...

山頭火 春雨の夜あけの水音が鳴りだした 4月26日(旧暦 三月七日)水曜日

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 春雨の夜あけの水音が鳴りだした 山頭火 「其中日記」昭和8年4月26日の条、「ふと水音に眼がさめた、もう明けるらしいので起きる。 身も心もすべてが澄みわたる朝だつた。正法眼蔵拝誦、道元禅師はほんたうにありがたい。(略)」 この日、掲句のほかに、 唱へをはれば明けてゐる    朝の雨にぬれながらたがやす  白さは朝のひかりの御飯  などの句を詠んでいます。 山頭火は、昭和7年9月20日其中庵に入居して落ち着きましたが、昨日の日記に「のらりくらり、かういふ生活にはもう私自身がたへきれなくなつた。」と書いたりしてますから、けっして安住していたわけではありませんでした。5月10日の条にも「晴、行乞しなくちやならない、どれ出かけやう。」とあるように、時々其中庵から行乞に出かけていましたが、ついに5月13日に庵を離れ長期の行乞の旅に出ることになります。 chatGPT斎 今日の一句   パンダが笑う 夜明けの庭に ムーンウォーク

芭蕉 春雨の木下につたふ清水かな 4月25日(旧暦 三月六日)火曜日 霜止出苗*(しもやんでなえいず)

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 苔清水  春雨の木下につたふ清水かな   芭蕉 昨日の「扇にて」の句のあとに「笈の小文」に掲載されており、貞享五年三月二十五日(1688年4月25日すなわち335年前の今日)頃の吟です。 苔清水は奥吉野の西行庵跡近くにある岩間の湧き水で「とくとくの清水」ともいわれます。芭蕉は、四年前の貞享元年九月(1684年10月)にも訪れ「 西上人 の草の庵の跡は、奥の院より右の方二町計わけ入ほど、柴人 のかよふ道のみわづかに有て、さがしき谷をへだてたる、いとたふとし。彼とくとくの清水は昔にかハらずとみえて、今もとくとくと雫落ける。  露とくとく心みに浮世すゝがばや 」と「野ざらし紀行」に書き残しています。 * 貞享暦の七十二候では、「牡丹華(ぼたんはなさく)」でした。 **西行の「とくとくと落る岩間の苔清水くみほす程なき住居哉」に拠ります。 chatGPT斎 今日の一句   かき分けて 春雨の 源流に立つ

芭蕉 桜狩り奇特や日々に五里六里 4月24日(旧暦 三月五日)月曜日

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  桜狩り奇特や日々に五里六里 芭蕉   貞享五年三月二十四日(1688年4月24日すなわち335年前の今日)頃の吟と考えられます。「よしのゝ花に三日とゝまりて、曙、黄昏のけしきにむかひ、有明の月の哀なるさまなど、心にせまり胸にみちて(中略)われいはん言葉もなくていたづらに口とぢたるいと口をし。」と芭蕉は記しています。 昨秋、江戸旅立つにあたり「よしのゝ花にこころせん」と餞別され、またこのたび伊賀上野を万菊丸と共に「吉野にて桜見せうぞ」と勇んで出立した芭蕉は、意気込み過ぎたせいでしょうか、満足できる桜の句を詠むことができなかったようです。「笈の小文」には、掲句と「 扇にて酒くむかげやちる桜 」の二句が掲載され、他に、この時の句と考えられる桜の句が五句残っています。 chatGPT斎 今日の一句    奥深し 山桜ひとつ 野菜の畑

芭蕉 ほろほろと山吹散るか滝の音 4月23日(旧暦 三月四日)日曜日

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ほろほろと山吹散るか滝の音 芭蕉 「西河*」と前書して「笈の小文」龍門の句のあとに掲載。貞享五年三月二十三日(1688年4月23日すなわち335年前の今日)の吟と考えられます。「きしの山吹**とよみけむ、よしのゝ川かみこそみなやまぶきなれ。しかも一重に咲きこぼれて、あはれにみえ侍るぞ、桜にもをさをさおとるまじきや。」と前書のある掲句の真蹟自画讃が残されています。 6年後の元禄七年(1694年)春、土芳は初瀬、多武峰、吉野、奈良と旅して「西川の滝  あゆの子の心冷(すさま)じ滝の音 」の句を残しました。 *「にじこう」と読みます。現在の川上村西河(にしがわ)。  **紀貫之「吉野川岸の山吹吹くかぜにそこの影さへうつろひにけり」(「古今和歌集」) chatGPT斎 今日の一句   滝を見る 山吹の青空 空を見る 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年04月」の「四月二十四 日」欄からの引用です。 山吹 の 茎 にみなぎり 来 し 青 さ 細見綾子 山吹の茎の青さに感動する。生来の感受性の豊かさがあり、「みなぎり来し青さ」の的確な表現は、山吹のみずみずしい生命の実相に触れ、躍動感に溢れている。( 児玉真知子)   「細見綾子集」 脚註名句シリーズ二( 一三)

芭蕉 草の戸も住替る代ぞひなの家 4月22日(旧暦 三月三日)土曜日

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  草の戸も住替る代ぞひなの家 芭蕉 元禄二年三月三日(1689年4月22日)、すなわち新旧暦でも同じ334年前*の今日にあたる日の吟詠と考えられます。 芭蕉は奥州行脚に出るにあたり、旅費に充てるためか深川の芭蕉庵を人に譲り渡します。「おくのほそ道」本文以外に「(前略)日比住ける庵を相しれる人にゆづりていでぬ。このひとなむ、つまをぐし、むすめ・まごなどもてるひとなりければ、」との詞書がある掲句(句形は、「草の戸も住かはる世や雛の家」)が残されています。その新しい住み手が桃の節句に飾った雛人形を詠んだものです。 *2023年は芭蕉がおくのほそ道の旅をした元禄二年(1689年)と、新暦、旧暦ともにほぼ同じ年になるという珍しい年にあたります。言い換えれば、今年の季と月の満ち欠けは、芭蕉の生きた元禄二年とほぼ同じになるということです。もちろん、今年の桜の開花がたいへん早かったように年ごとの気候変動は大きいですけれど。 chatGPT斎 今日の一句(掲句の漢詩訳) 世事 千変草堂移/ 織物玉雛飾春晴/ 生命如風,旅人過客情

芭蕉 雲雀より空にやすらふ峠かな 4月22日(旧暦 三月三日)土曜日

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 雲雀より空にやすらふ峠かな 芭蕉 「臍(ほそ)峠 多武峰ヨリ竜門へ越道也。」と前書して「笈の小文」葛城山のあとに掲載。貞享五年三月二十二日(1688年4月22日すなわち335年前の今日)の吟です。この日、芭蕉一行は臍(細)峠から竜門岳ルートをとり竜門の滝*を下り、平尾村(現、吉野町平尾)へ出、そこに宿泊**します。 * 竜門の滝での吟。 竜門の花や上戸の土産にせむ 酒飲みに語らんかかる滝の花  なお、 芭蕉の84年後の明和九年(1772年)に、本居宣長は吉野山を訪れています。 「菅笠日記」によりますと三月六日から八日(4月8~10日)にかけて、宣長は初瀬~多武峰~吉野山にあって、かねてからの竜門の滝を見たいという願いを「道しるべせし者のさてはいたく遠くて道もけはしきよしいひしかば。」断念せざるを得なかったと悔しがっています。宣長は龍在峠より臍峠に向かわずそのまま滝畑、吉野への道を下ったと思われます。   ** 翌年三月出板の「曠野」に掲句(「中句が「上にやすらふ」)と共に収録されています「 大和国草(平)尾村  花の陰謡に似たる旅ねかな 」の句がこの時の吟詠です。 chatGPT斎 今日の一句   雲雀の 卵から生まれる 鳥ではない*** ***GPT斎自釈「 この俳句は、『雲雀の卵から生まれる』という一般的なイメージと異なる何かが生まれることを暗示しています。『鳥ではない』というフレーズは、鳥以外の何かが生まれることを示唆していると解釈できます。具体的に何が生まれるのかは、聞き手の想像力に委ねられます。例えば、架空の生き物、もしくは何らかのシンボル的な存在などが考えられます。また、シュールな解釈としては、卵から直接雲雀が生まれるのではなく、異質なものが生まれるという解釈も可能です。」

芭蕉 猶みたし花に明行神の顔 4月21日(旧暦 三月二日)金曜日

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猶みたし花に明行(あけゆく)神の顔 芭蕉 芭蕉一行は、長谷に宿泊した翌日の貞享五年三月二十一日(1688年4月21日すなわち今日)初瀬街道を三輪へ向かいます。長谷寺の句の次に「葛城山」として「笈の小文」にある掲句は、そのときの吟と思われる配置です。吉野の桜を見る前の、花盛りの初瀬街道もしくは三輪辺りからの葛城山の遠望となります。* *しかしながら、掲句は「(略)葛城山のふもとを過るに、よもの花はさかりにて、峰々はかすみわたりたる明ぼののけしき、いとゝ艶なるに、彼の神 ** のみかたちあしゝと(略)」という前書をもって形で「泊船集」はじめ多くの句集に収録されていますので、芭蕉が詠んだのは、和歌の浦から紀伊の暗峠を越え、葛城山のふもとを通り奈良に向かった、四月初め(新暦では5月初め)だとの説が有力なようです。しかし、 貞享五年の立夏は四月七日と少し遅めだったようですが、夏の月である卯月に入ってから芭蕉が桜の句を詠むとは考えられません***。また、 いくら桜の開花が遅かったとしても、立夏が近い時期に「よもの花はさかり」であったとも思えません。「 葛城山のふもとを過るに」 の方がフィクションなのでしょう。芭蕉はこのような演出を時々やっています。 ** 葛城 一言主神。 ***「やよひのすゑ」と冒頭に書き加えた前書のある真蹟懐紙も伝わっていたようで、吉野から高野に向かう途中、三月末頃の吟とする説もあります。 chaGPT斎 今日の一句   花咲くや 醜き面の  神のほほえむ

芭蕉 春の夜や籠り人ゆかし堂の隅 4月20日(旧暦 三月一日)木曜日 穀雨 葭始生(よしはじめてしょうず)

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春の夜や籠(こも)り人(ど)ゆかし堂の隅 芭蕉   伊賀上野を出立した芭蕉一行*は、国見山の兼好塚などを見物、途中一泊ののち貞享五年三月二十日(1688年4月20日、344年前の今日)琴引峠を越え大和初瀬に入り、長谷寺を参詣します。掲句はその折の詠です。 長谷は恋成就祈願の霊験あらたかで名高い観音様でしたので、「籠り人」は身分のある女性**ように思われます。「笈の小文」では、掲句に続け「 足駄はく僧も見えたり花の雨   万菊 」の句を掲載しています。 なお、芭蕉は「旅の具多きは道さはりなりと物皆払捨たれども、夜の料にとかみこ壱つ、合羽やうの物、硯、筆、かみ、薬等、昼餉なんど物に包て後に背負たれば、いとゝすねよはく力なき身の、跡ざまにひかふるやうにて道猶すゝまず。***」と書いています。しかしながら、伊賀上野から長谷寺まで11~12里、1日で歩ける距離ですから、途中一泊している一行は、実際のところ春爛漫ゆったりとした道中を愉しんだのだと思います。 *猿雖の下僕「六」が二人に同行しており、奈良まで一緒だったようです。 **芭蕉は、この年の九月に越人と両吟歌仙を巻いていますが、その中に越人の「 人去ていまだ御座(おまし)の匂ける 」の句に、芭蕉は「 初瀬に籠る堂の片隅 」と付けています。 ***ここの部分は、「おくのほそ道」の旅立ち、千住から草加あたりの文章「行道なをすゝまず。」「只身すがらにと出立侍るを、痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。」「帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた、雨具、墨、筆のたぐひ、(略) 路次の煩となれるこそわりなけれ。」によく似ています。これは、「笈の小文」と「おくのほそ道」の執筆・推敲時期が重なっていたためでしょう。 chatGPT斎 今日の一句   桜散る うつろなりけり 空の青

芭蕉 吉野にて桜見せうぞ檜木笠 4月19日(旧暦 閏二月二十九日)水曜日

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吉野にて桜見せうぞ檜木笠 芭蕉   貞享五年三月十九日*(1688年4月19日すなわち5年前の今日)、吉野山に向け伊賀上野を旅立つ折の吟。 「笈の小文」に「弥生半過る程、そゝろにうき立心の花の、我を道引枝折となりて、よしのゝの花におもひ立んとするに、かのいらご崎にてちぎり置し人のい(伊)勢にて出むかひ、ともに旅のあはれをも見、且は吾為に童子となりて道の便りにもならんと、自万菊丸と名をいふ。(略)いでや門出のたはぶれ事せんと笠のうちに落書ス。/乾坤無住同行二人」として掲句と「 吉野にて我も見せうぞ檜木笠 万菊丸 」が掲載されています。 *同年四月二十五日付の惣七(猿雖のこと)宛の芭蕉・万菊(杜国)の書簡に「三月十九日伊賀上野 を出でて」とあります。なお、同じ日に芭蕉が詠んだ句「たび立日  このほどを花に礼いふ別れかな 」も残っています。 chatGPT斎 今日の一句   笠つけて 春風に身を ゆだね舞う

一茶 花ちるや雨ばかりでも角田川 4月18日(旧暦 閏二月二十八日)火曜日

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花ちるや雨ばかりでも角田川 一茶 安永元年三月九日(1804年4月18日すなわち219年前の今日)、夏目成美*と花見に出て雨にあった隅田川での吟。 「文化句帖」の同日の条に「曇。角田川花見。昼より雨。(略)俄に空かきくもりて、雨ハしきなミ打ければ、たのむ木陰もつひにハ漏りて、(略)身の軽き我々の気さんじなる、手の奴(やっこ)足の駕(のりもの)の任せて、雨の降うと、やりがふろうと」として掲句が記されています。 *成美は一茶のよき理解者であり支援者であった俳友。本業は、浅草蔵前の札差だったそうです。 chatGPT斎 今日の一句   雨や目を 閉じて感じる 春の香り

山頭火  いちめんの菜の花の花ざかりをゆく 4月17日(旧暦 閏二月二十七日)月曜日

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いちめんの菜の花の花ざかりをゆく 山頭火 昭和14年(1939年)4月17日(旧二月二十八日)84年前の今日の詠です。 3月31日小郡の其中庵を出立した山頭火は、4月12日愛知に入り、16日には八ツ橋の業平塚や無量寿寺から今の刈谷市の南部辺りにかけて「吟行」しました。そして今日17日もしくは18日に知多半島を横切り伊勢湾側に出ていますので、掲句はその途次のものです。その後、海伝いを歩き19日三河湾側の師崎港で「二三杯ひつかけ」てから、福江に渡り「よさゝうな宿を見つけ」宿泊。翌20日、山頭火は伊良湖崎で杜国の墓や芭蕉の句碑を懐かしみ、 波音の墓のひそかにも  風のてふてふいつ消えた  波音のたえずして一人  はじめ多くの句を「旅日記 昭和十四年」に書き残しています。 chatGPT斎 今日の一句  黄色い海 波打ち際に 菜の花一面

蕪村 行春や眼に合わぬめがね失ひぬ 4月16日(旧暦 閏二月二十六日)日曜日

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行春や眼に合わぬめがね失ひぬ 蕪村 明和六年三月十日(1769年4月16日すなわち254年前の今日)、京の召波亭句会での吟。(推定「蕪村俳句集 尾形仂校注」)召波は蕪村の門弟。 この日の句会で、暮春の句を数多く読んでおり、嘱目の句と思われるものもありますが多くは題詠の句のようです。また掲句のように破調の句もあります。 肘白き僧のかり寝や宵の春 あちら向に寝た人ゆかし春の暮  歩き歩き物おもふ春のゆくへかな けふのみの春をあるひて仕舞けり  最後の「けふのみの」の句は明らかに3月尽を詠んだ句ですから、三月十日ではなくて二十九日(明和六年三月は小の月)に詠んでくれれば、「今日詠まれた句-日めくり俳句-」ブログとしましては気持ちよかったのですけれど… chatGPT斎 今日の一句    散りゆくはな 風にゆれる 春のさざめき 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2023年05月」の「五月二十 日」欄からの引用です。 外 し 置 く 眼鏡 に 充 ちて 新樹光 藤本安騎生 先生は「俳句は生活記録」も大切なことと教えられた。眼鏡を借りて、新樹の陽光の中に生かされている幸せを記録したかった。 「藤本安騎生集」 自註現代俳句シリーズ八( 一六)

一茶 煤くさき笠も桜の降日哉 4月15日(旧暦 閏二月二十五日)土曜日 虹始見

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煤 (すす) くさき笠も桜の降日哉 一茶   「東西の花に散り立られて、心も山にうつり行といふ日は、三月二十日也けり」と前書、掲句を記して「山下常楽院*に、人々こぞりてとふとむ仏おはしけるが、ことし千百年の供養なりとて、読経いと殊勝也… 花桶に蝶も聞かよ一大事 **」「上野なる清水の糸桜はいつか青葉となりて」『散こそ花ハ愛(めで)たけれ』と嘯き、角田堤、浅草などにも遊んだ記録「花見の記」が残されています。 「文化句帖」文化五年三月二十日(1808年4月15日すなわち215年前の今日)の条に「晴。山下五番阿弥陀参。上野角田川随斎の花見也」あります。 この日は他に、 ぼた餅や迹 (あと) の祭りや桜ちる 、 咲く花に武張り給はぬ御馬哉 、 菫咲て手凹 (てのくぼ) 程の名所哉  など数多く吟詠が残されています。 *常楽院長福寿寺、今の上野広小路にあった行基の開創と伝えられる寺院(戦災により調布に移転)。江戸六阿弥陀第五番と称され、六阿弥陀詣りで賑わった。**昨日の「雀子も」の句と等類か。芭蕉は「他の句より先我が句に我が句、等類すること知らぬもの也。」と述べたと三冊子にあるが、一茶は気にしない。 chatGPT斎* 今日の一句     月夜に 舞う花びらが 白く映える  

一茶 雀子も梅に口開く念仏哉 4月14日(旧暦 閏二月二十四日)金曜日

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雀子も梅に口開く念仏 (ねぶつ) 哉 一茶   文化元年三月五日(1804年4月14日すなわち219年前の今日)の江戸本所での吟。「文化句帖」同日の条、後段に「此日此聖人、霊山寺にて教化し玉ふとて、(略)かゝる折に通りかゝるも、神仏の引合にやと道場に上がれば、(略)結跏趺坐のありさまも凡人にかはれり。声ハ飄々と風の竹木を吹くがごとし。(略)目の前に逢い奉ることのうれしさよ」として掲句が記されています。 この聖人とは念仏行者の篤音(徳本)阿闍梨。徳本(とくほん)は、20年余り紀伊の深山で修行してこの年の2月に江戸に下っていました。一茶は「彼土の鳥けだものゝなごりおしくやあらん、別おしくやあらん。 聖人 (しやうにん) に見放されたる桜哉 」と同日の条前段で、もう1句詠んでいます。 この時期、桜の花はまだ散り残っていたかもしれませんが、掲句の梅は花ではなく梅の木だと思われます。雀は花のない梅に飽きて欠伸をしているとも読めますが、熱心な浄土教信者であった一茶ですから、やはり雀子も唱和しているのでしょう。 chatGPT斎*  今日の一句    梅の花 風に揺られて 鳥の囀り  *一茶もびっくり!今後その日にchatGPTが詠んだ句も掲載します。 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年04月」の「四月十四 日」欄からの引用です。 舟 を 漕 ぐ 蛙 のゐたり 一 茶 の 地 進藤一考 一茶の地だから蛙が念頭にあった。北信濃は春の只中だった。 「進藤一考集」 自註現代俳句シリーズ二( 二〇)

蕪村 我帰る路いく筋ぞ春の艸 4月13日(旧暦 閏二月二十三日)木曜日

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我帰る路いく筋ぞ春の艸 蕪村   蕪村の伝真蹟自画讃に、「諸子*とわだのみさきの隣松院に会す。題を探り偶春草を得たり。余不堪感慨。しきりにおもふ、王孫万里今なをいづちにありや。故郷の春色誰ためにか来去す。王孫々々、君が遠遊に倣ふべからず、君が無常を学べからず。」とし掲句が記されています。「蕪村全集」の注釈に「いずれの道をとったらいいのだろうか。大魯への留別の情に故郷喪失者の痛切な望郷の思いを重ねた。**」と解説しています。 「几菫句稿」に、安永七年三月十五日(1778.4.12)「和田岬***、隣松院小集。席上探題。」同十六日(4月13日すなわち245年前の今日)「来屯亭にやどる。戯画。」とあります。この蕪村筆の「戯画」は、身の上を案じてやまない愛弟子大魯に与えられ、「我帰る」自画讃として今に伝わります。 *「諸子」とは、蕪村、几董、 来屯(きむろ)、 大魯等。大魯は、 来屯亭に流寓中でした 。掲句の2,3日後に脇の浜の客舎(井筒屋)で詠んだ「筋違にふとん敷たり宵の春」があります。「値千金の春の宵、(略)斜めに敷いた床で頭を寄せて心行くまで語り合った」のは蕪村と大魯であった気がしてなりません。 **前安永六年春の春風馬堤曲に「春艸路三叉中に捷径あり我を迎ふ」の詩句があります。そして安永八年春蕪村は、「泣に来て花に隠る思ひかな」との追悼句を詠むこととなります。大魯は和田岬に遊んだ七年の十一月十三日(1778.12.31)に病没します。病中、蕪村は「大魯が病の復常をいのる」として「痩脛や病より起つ鶴寒し」と見舞句を詠んでいます。  * **今の神戸市兵庫区和田岬。なお、来屯亭は兵庫区兵庫町あたりにあったそうです。 chatGPT斎 今日の一句   かぎりなく 黒い春のからす なくか

芭蕉 花咲て七日靏みる麓哉 4月12日(旧暦 閏二月二十二日) 水曜日

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花咲て七日靏 (つる) みる麓哉 芭蕉 貞享三年三月二十日(1686年4月12日すなわち337年前の今日)「紅花大尽」と称された尾花沢の鈴木清風*江戸屋敷で興行された七吟歌仙の発句。連衆は、芭蕉、清風、挙白、曽良、コ斎、其角、嵐雪。花 は咲いて散るまで七日、鶴も降りて七日留まるとのいわれを引いた挨拶句**。 脇は清風、 おじて蛙のわたる細橋  第三は挙白、 足踏木 (あぶみぎ) を春まだ氷る筏して 。 清風が脇句に蛙を詠み込んでいるのは、同月に興行された「蛙の句二十番句合」をよく知ってのことかと思われます。実はその句合の巻頭句こそが芭蕉の  古池や蛙飛び込む水の音  でした。興行日は特定されていませんが、第九番左句に琴風の 夕月夜畦に身を干す蝦( かはず) 哉 がありますので、三月十日頃だったのかもしれません。いずれにしても「古池や」が生まれ立ての頃で、清風との話も盛り上がったことでしょう。 *芭蕉が「おくのほそ道」の中で「かれは富るものなれども志いやしからず」と高く評価している清風その人。この日から3年余りたった元禄二年五月(1689年7月)、芭蕉と曽良は尾花沢の清風宅にしばらく逗留することになる。 **1年余り前の貞享二年二月に野ざらしの旅の途次、芭蕉は京鳴滝にある越後屋三井家の秋風の別墅に逗留した際、 梅白しきのふは鶴を盗まれし  の挨拶句を詠んでいる。秋風の庭には鶴は見かけなかったようだが、江戸の清風の屋敷には鶴がいたのだろう。 chatGPT斎 今日の一句   翼拡げて わたしは舞うや 春の風

土芳 おもしろう松かさ燃えよおぼろ月 4月11日(旧暦 閏二月二十一日) 火曜日

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  おもしろう松かさ燃えよおぼろ月 土芳 貞享五年*三月十一日(1688年4月11日すなわち335年前の今日)、伊賀上野の蓑虫庵での吟。「蓑虫庵集」に「十一日、ばせを翁をやどす おもしろう**松かさ燃えよおぼろ月」とあり、土芳はこの弥生月四日に新築なった庵に芭蕉を招きました。伊勢で芭蕉と合流して上野に滞在中の杜国(万菊丸)も、きっと一緒だったでしょう。 ただこの時、新庵はまだ「蓑虫庵」ではありませんでした。同書に「ある日、翁面壁の画図一帋懐中より取出して、これを此庵物にせばやと夜すがら書かれしと也。讃に、 蓑むしの音を聞にこよ草の庵  おしいたゝき、則其初五の字をつみて蓑虫庵と号すべしといへば、よしと也。」と土芳は記しています。芭蕉は三月十九日に万菊丸同行で吉野、高野、和歌浦、奈良、大阪、須磨明石行脚に上野を出立しますから、「蓑虫庵」と命名されたのは芭蕉が泊まってからほどなくだったと思われます。なお、「蓑むし」の句は前年秋、江戸深川での吟です。 *貞享五年は九月三十日に改元され元禄元年となります。 **芭蕉が岐阜で「 おもしろうてやがて悲しき鵜飼哉 」と詠むのは、土芳句の3か月後の六月頃のことです。 chatGPT斎 今日の一句   おぼろ月 猫も眠らず 屋根の上 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年04月」の「四月六 日」欄からの引用です。 月 おぼろ 明日 は 壊 すと 決め し 家 下里美恵子 生れ育った家を壊すことになった。複雑な思いをおぼろな月がつつんでくれた。 「下里美恵子集」 自註現代俳句シリーズ一一(四九)

芭蕉 木の本に汁も膾も桜哉 4月10日(旧暦 閏二月二十日)月曜日 鴻雁北

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  木の本に汁も膾 (なます) も桜哉 芭蕉 正月膳所から伊賀上野に戻っていた芭蕉は、元禄三年三月二日(1690年4月10日すなわち333年前の今日)、伊賀上野城下小川風麦邸で掲句を発句として八吟俳諧興行を行ないます。連衆は風麦、土芳、半残ら8名です。土芳は「三冊子」に「この句の時、師のいはく『花見の句のかゝりを少し得て、かるみをしたり』となり」と書き残しています。脇は風麦、 明日来る人はくやしがる春 、第三は良品、 蝶蜂を愛するほどの情けにて 。この日の「俳諧之連歌」は、第十八句までは同じ四十句のものと歌仙の二巻伝えられています。 芭蕉は伊賀上野の俳諧には満足しなかったようで、三月下旬に膳所に行き掲句を立句に、珍夕、曲水と三吟歌仙を巻きます。脇は珍夕、 西日のどかによき天気なり 、第三は曲水、 旅人の虱かき行く春暮て 。 どうやら膳所の方が芭蕉の求める「かるみ」に近かったようです。そのまま膳所に滞在した芭蕉は、4月から幻住庵に入ることになります。 chatGPT斎 今日の一句   春風に ベーコンと卵 空の青 

蕪村 我影をうしろへ春の行衛かな 4月9日(旧暦 閏二月十九日)日曜日

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  我影をうしろへ春の行衛(ゆくへ)かな 蕪村   自画讃に「敏馬(みぬめ)の浦づたいせむと、すずろに道をいそぎけるに、むこ川のほとりにて、佳則子が浪花におもむくに相逢ふ。旅衣を換ふるひまもなく、彼は春風に乗じて東へ、我は落日を望て西す」として。 「安永七年(1778年)春、蕪村は几董らと共に浪花、兵庫に遊びます。「几董句稿」三月十二日(4月9日、すなわち245年前の今日)の条に、「浪花を出て脇の浜にゆく。朝曇り、昼つかたより晴れ。梅田、大仁、野田の渡し、佃の渡し、尼崎、武庫川、枝川のあなたにて大石の佳則が浪花に往くにあふ。西宮、住吉、脇浜、敏馬浦。井筒屋が亭に着く。黄昏」とありますので、この日の事だとわかります。そして蕪村は、几董と泊まった井筒屋で、 筋違にふとん敷たり宵の春  の句を詠みます。  *敏馬は、今の神戸市灘区の摩耶埠頭一帯の古地名。万葉集に「 玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎 きぬ」(柿本人麻呂)があるなど 歌枕。 chatGPT斎 今日の一句   夜の風 薄紅に 蚕のおどる

蕪村 銭買うて入るやよしのゝ山ざくら 4月8日(旧暦 閏二月十八日)土曜日

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銭買うて入るやよしのゝ山ざくら 蕪村 安永五年二月二十日(1776年4月8日すなわち247年前の今日)、京都で詠まれた句、実際に吉野山に行っているわけではない。 暮んとす春ををしほの山ざくら 山守のひやめし寒きさくらかな  なども一緒に残されている。 この日行われた夜半亭*月並句会は、几董**の欠席もあって「はやく仕舞い候て、花頂山***の花見ニ同伴いたし候」(二十一日付几董宛蕪村書簡)という次第で、その際の吟だと思われる。「銭買うて」は茶店での飲食代のために小銭に両替して、いざ吉野の花見へといったところでしょう。 *蕪村は師である夜半亭宋阿(早野巴人)の死後28年を経て明和七年(1770) 夜半亭を継承していた。この日の句会の兼題は「田螺」で、 雁立て驚破(そよや)田にしの戸を閉る  などの句が残る。**高井几董は、蕪村が夜半亭二世となった年に30歳にして弟子入り、蕪村の死後夜半亭三世となる。***花鳥山(華頂山)は東山三十六峰の一つ。知恩院の東南に位置し、丸山、長楽寺山、花鳥山、高台寺山と並ぶ。ちなみに知恩院の山号は華頂山。 chatGPT斎 今日の一句   霞かかる 木々の 隙間から

越人 うらやましおもい切時猫の恋 4月7日(旧暦 閏2月17日) 金曜日

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うらやましおもい切時猫の恋 越人 伊賀上野に滞在中の芭蕉が、元禄四年三月九日(1691年4月7日すなわち341年前の今日)付の京都の去来宛書簡で、「越人*、猫之句、驚入候。初而彼が秀作承候。心ざし有るものは終に風雅の口に不出といふ事なしとぞ被存候。姿は聊ひがみたる所**も候へ共、心は高遠にして無窮之境遊しめ、賢愚之人共にをしへたるものなるべし。」と絶賛している句です。 *越智越人は、越後出身の名古屋の人。掲句を詠んだ7年前の貞享元年入門。同四年十一月(1687年12月)伊良湖に蟄居する杜国を見舞う芭蕉の道案内、同五年八月(1688年9月)の更科の旅にも同行して、そのまま江戸まで従たがい、ひと月ほど滞在しました。そして翌年、元禄二年九月(1689年10月)初めには、おくのほそ道の旅を終えた芭蕉と大垣で合流して大垣連衆とともに歌仙に連座、伊勢に向かう芭蕉一行を見送るなど、交流の深かった弟子です。 芭蕉十哲に一人の数えられることもある越人でさえ、入門して7年も修行しないと芭蕉に褒めてもらえなかったのですねえ… **掲句のもとの形は「 思ひきる時うらやまし猫の恋 」で、芭蕉は前月二十二日に膳所の珍夕(洒堂)宛に、「よろしく候」と書き送っており、「猿蓑」入集までに芭蕉が直したようで、この手紙を書きながら掲句の形に決めたのかもしれません。 chatGPT斎 今日の一句   おぼろ月  黒猫の 瞳に映る 

一茶 御山はどこ上つても花の咲 4月6日(旧暦 閏二月十六日)木曜日

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  御山 (おんやま) はどこ上つても花の咲 一茶 一茶は、千住に出かけた翌日、支援者の下総布川の人である月船と共に上野の山に登ります。「文化句帖」文化元年二月二十六日(1804年4月6日)の条には、「晴 月船と登東叡山」とあり、口語調の掲句と  棒突*も餅をうりけり山桜  の2句が記されています。  *「棒突き」とは、六尺棒を携えて社寺の境内を警固する人や辻番所の番人などのこと。 chatGPT斎 今日の一句   まばゆき光 おぼろ月の 夢の世界

一茶 わか草や誰身の上の夕けぶり 4月5日(旧暦 閏二月十五日)水曜日 清明・玄鳥至

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  わか草や誰身の上の夕けぶり 一茶 「文化句帖」文化元年二月二十五日(1804年4月5日)の条に、「晴 北風吹 巣兆ノ婦人例ならぬとて、乙二、道彦とおなじく千住におもぶく。かへるさ隠坊の家をよ所に見なして、」として、掲句と  わか草と見るもつらしや夕けぶり  を記す。巣兆、乙二、道彦いずれも俳人で一茶と共に千住に住む巣兆の妻を見舞ったのである。小塚原の周りの隠坊の粗末な家から上がる夕餉のけむりか、小塚原で処刑された罪人焼くけむりなのか… 巣兆、道彦は加舎白雄の弟子の巣兆、道彦は、一茶のパトロン・盟友である夏目成美と共に江戸の三大家と称され、乙二は3人との交流が深かったそうです。 chatGPT斎 今日の一句   春のからす 一瞬消えた 光のかけら

芭蕉 鶯や餅に糞する縁の先 4月4日(旧暦 閏二月十四日)火曜日

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鶯や餅に糞する縁の先 芭蕉 前年10月末ながい旅から江戸にもどって日本橋橘町に仮寓していた芭蕉は、元禄五年二月十八日(1692年4月4日)、去来宛に書簡を書きました。掲句はその末尾にあり、続けて「下 (しも) 、笹伝ひと有るべきや」と去来に問いかけています。もし下五が改案され「鶯や餅に糞する笹伝ひ」と治定されていたなら、この日の作といえたかもしれませんが、残念ながら、掲句は1月下旬の吟です。 なお、同書簡の追書きに「愚句歳旦*御心に御入り候由、珍重。精進出し候。其角も感少なからず候由申し候」と喜びを伝えています。また、同じ日に芭蕉は大津の曲水宛に「風雅の道筋、大かた世上三等に相見え候」と定家や西行らを最上等と評価する、後世「芭蕉翁三等之文」として有名になる書簡も執筆しています。 *元禄五年の芭蕉歳旦句、 人も見ぬ春や鏡の裏の梅   chatGPT斎 今日の一句   鳥の声 プログラムエラー 夜明け刻(どき)

山頭火 ふるさと遠い雨の音がする 4月3日(旧暦 閏二月十三日)月曜日

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  ふるさと遠い雨の音がする 山頭火 昭和7年4月3日に、行乞中の平戸で詠まれました。「行乞記」の同日の条には、「印肉老人また出かけて酔うて来て踊つた、踊つた、夜の白むまで踊つた、だまつて、ひとりでおとなしく――あゝ、かなしい、さみしい。 また雨、ふるならふりやがれ! 晴れて寝、曇つて歩く、善哉々々。 酔ひどれも踊りつかれてぬくい雨 」と掲句の2句が記されており、続けて 「けふの道はよかつた、汗ばんで歩いた、綿入二枚だもの、しかし、咲いてゐたのは、すみれ、たんぽゝ、げんげ、なのはな、白蓮、李、そしてさくら。……」とあります。 山頭火の故郷は、山口県佐波郡(現防府市)。この年秋、故郷近く小郡に其中庵」を結庵してしばし落ち着くことになりますが、山頭火はその9月4日に、 雨ふるふるさとははだしであるく  と詠みます。 chatGPT斎 今日の一句   寝呆けて カップの中 蛍が泳ぐ

蕪村 菜の華や法師が宿を訪はで過し 4月2日(旧暦 閏二月十二日)日曜日

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  菜の華や法師が宿を訪はで過 し 蕪村 安永五年二月十四日(1778年4月2日)、245年前の今日、蕪村が京都で詠みました。詩題「僧ヲ訪ヒテ遇ハズ」に拠る。 chatGPT斎 今日の一句   菜の花や何思うかと蝶の舞う