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芭蕉 五月雨や色帋へぎたる壁の跡 5月31日(旧暦 四月十二日)水曜日

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五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡 芭蕉 元禄四年五月四日(1691年5月31日)に詠まれました。 「四日  宵に寝ざりける草臥(くたびれ)に終日臥(ふす)。昼より雨降止ム。/明日は落柿舎を出んと名残をしかりけれバ、奥口の一間一間を見廻りて、」として、掲句にて「嵯峨日記」は締めくくられています。四月十八日に落柿舎に入って以来、この日まで芭蕉は17日のあいだ嵯峨に滞在しました。 落柿舎を出た芭蕉は、小川椹木町上る(現在の京都市上京区八幡町辺り)の凡兆宅に移り「猿蓑」の編集を本格化することとなります。 chatGPT斎 今日の一句   五月雨や 折れた傘が 歩いてる

一茶 五十聟天窓をかくす扇かな 5月30日(旧暦 四月十一日)火曜日

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五十聟天窓(あたま)をかくす扇かな 一茶 「七番日記」巻頭文の中に「文化十一年 一茶 五十二 四月十一日 赤川里、常田氏女ヲ娶ル。女年二十八ト云。五十二ニシテ始妻帯ス」と一茶は特記しています。 また、「五十年一日の安き日もなく、ことし春漸く妻を迎へ、我身につもる老を忘れて、凡夫の浅ましさに、初花に胡蝶の戯るゝが如く、幸あらんとねがふことのはづかしさ。(中略)千代の小松と祝ひはやされて、行すゑの幸有らん迚(とて)、隣々へ酒ふるまひて、」として掲句を記した真蹟が残されています。 歳の離れた花嫁、菊を迎えた日は、1814年5月30日にあたります。前年一茶は、十三年に及んだ異母弟との財産分配争いが決着して、故郷柏原に念願の田畑と家屋敷等を持ちました*。  大の字に寝て涼しさよ寂しさよ  と詠んでいます。 掲句「天窓をかくす」とありますが、一茶は禿げてたわけではなく白髪だったようです。「白毛黒クナル薬、クルミスリツブシ毛ノ穴」(文化二年 四十三歳)、「おのれのかしらには霜をいただき」(文政三年 五十八歳)等と書いています。ただ、結婚時にはすでに歯は一本も残っていなかったそうです。 *故郷を離れて30年、根無し草のような生活の中で老後を心配していた一茶は、「 五十にして冬籠さへならぬ世 」(文化三年 四十四歳)といった句を残しています。 chatGPT斎 今日の一句   晩婚の花咲くたびに時間が止まる 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年05月」の「五月二十二 日」欄からの引用です。 膳 のものえびやあはびや 夜 の 怒 濤 大野林火 五月、房州白浜で鍛練会が行なわれた。その前日に太見ヘー泊して得ている。「えびやあはびや」は眼前のものなのだが豊かでよい。夜の怒濤が海に近い宿の開け広げた大きな部屋を感ぜさせる。野沢節子・恩賀とみ子・田口俊子・大川つとむなど賑やかな面々。   「大野林火集」 脚註名句シリーズ一( 一八)

曾良 くまの路や分つゝ入ば夏の海 5月29日(旧暦 四月十日)月曜日

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くまの路や分つゝ入ば夏の海  曾良 「嵯峨日記」元禄四年五月二日(1691年5月29日)の条に、「曾良来リてよし野ゝ花を尋て、熊野に詣侍るよし。武江旧友・門人のはな[し]、彼是取まぜて談ズ。」とあり、曽良の掲句と芭蕉自らの  大峯やよしのゝ奥を花の果  を記載して、「夕陽にかゝりて、大井川に舟をうかべて、嵐山にそふて戸難瀬をのぼる。雨降り出て、暮ニ及て歸る。」 曽良は三月五日江戸を発って近畿巡遊の途次でした。三月末に吉野に入り、四月朔日奥院の花盛りなどを見物、その後高野山を経由、熊野道から十一日熊野本宮に参宮して翌十二日新宮に至っています。 chatGPT斎 今日の一句   夏の海に 熊が浮かぶ さかな飛ぶ

山頭火 六十にして落ちつけないこゝろ海をわたる 5月28日(旧暦 四月九日)日曜日

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六十にして落ちつけないこゝろ海をわたる 山頭火 昭和15年(1940年)5月28日の詠です。 「松山日記」に 「五月廿八日 曇。/ 早起、一雨ほしいなと誰もが希ふ。/ いつもの飲みすぎ食べすぎで多少の腹痛と下痢、自粛しよう、しなければならない。/ 朝、奥さん*は道後へ、私は山口へ。 ……」と書き出し、山頭火は「自嘲」と前書して掲句で締めくくっています。 *どんこ和尚こと大山澄太の奥さん。 山頭火は 中国九州の旅出るため、前日早起きして松山の庵を発ち、船で広島に渡りました。日記に「身心憂欝、おちついてはゐるけれど、――この旅はいはゞ私の 逃避行 である、――私は 死んでも死にきれない境地 を彷徨してゐるのだ。/  一時宇品着、電車で局に どんこ和尚 を訪ふ、宅で泊めて貰ふ、よい風呂にはいりおいしい夕飯をいたゞく、あゝどんこ和尚、どんこ和尚の家庭、しづかであたゝかなるかな、私もくつろいでしんみりした。」と記しています。山頭火は6月初めに松山に戻りますが、10月11日に数え60歳の生涯を閉じることになります。 chatGPT斎 今日の一句   還暦を 迎えたはずの 幼児の手

蕪村 牡丹切て気のおとろひし夕かな 5月27日(旧暦 四月八日)土曜日

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牡丹切(きっ)て気のおとろひし夕かな  蕪村 今日、須賀川市の乙字ケ滝に行こうと歩いていると、ほととぎすが鳴きました。「初音」です。この頃は声を聞かない年もあるくらいほととぎすは珍しいものになりました。 今日は牡丹の句です。掲句は、安永五年四月十日(1776年5月27日)京で詠まれました。 ちりて後おもかげにたつぼたん哉  の句もこの日の作です。 翌六年の「 方百里 」やこれらの句を、後年詠まれることになる  虹を吐いてひらかんとする牡丹哉   と並べてみると、蕪村の思いが一層よくわかってくるように思います。 蘇東坡の 「八月十五日看潮 五首」*の其五に、「 海若東来気吐霓 」という詩句があります。「海若」は海の神、「霓」は虹霓と言われるように一字でも虹のことです。海の神が東から来るのは「気勢、まさに虹を吐くがごとし」という意味で、蕪村には牡丹が神が吐き出す虹のごとき気そのものだったんでしょう。 * 上潮の波が垂直の壁となって大河を遡る「海嘯」現象をうたった連作です。蘇東坡は、 熙寧六年(1073年)八月十五日有名な銭塘江の海嘯を見に行きました。 なお、蕪村の牡丹句では有名な 「 閻王の 」( 明和六年1769年)に がありますが、この句については6月13日の項を参照ください。 chatGPT斎 今日の一句   牡丹咲き乱れる笑みの人の顔 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年05月」の「五月十二 日」欄からの引用です。 白 牡 丹影 もろともに 剪 られけり 中尾杏子 ひかりのあるところ、必ず影もある。ただその影を意識するかしないかである。<白牡丹おのが呪縛を解きにけり>同時作。 「中尾杏子集」 自註現代俳句シリーズ一〇( 一五)

蕪村 ほととぎす平安城を筋違に 5月26日(旧暦 四月七日)金曜日 紅花栄(こうかさかう)

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ほととぎす平安城を筋違に 蕪村 明和八年四月十三日(1771年5月26日、252年前の今日)、京での吟。 この日蕪村は、 宵々の雨に音なし杜若  の句も詠んでいます。 昨日の芭蕉句を含めれば、三日連続のほととぎすの句となりました。 七十二候「紅花栄」に入ります。 chatGPT斎 今日の一句   木漏れ日に ひそやかに鳴く ほととぎす

蕪村 夕風や水青鷺の脛をうつ 5月25日(旧暦 四月六日)木曜日

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夕風や水青鷺の脛(はぎ)をうつ 蕪村    安永三年四月十五日(1773年5月25日) 東山紋阿弥亭での名古屋の暁台一門を迎えての歌仙興行の発句です。十二、十三日頃蕪村は暁台らと嵯峨に遊びました。その折の作かもしれません。 昨日は蕪村の「子規」(安永二年四月四日)でしたが、さすがにこの時期ほととぎすの句が多くみられます。元禄二年の今日、芭蕉*は下野の国黒羽に滞在中で、 田や麦や中にも夏の時鳥  と詠んでいます。明日はまた、蕪村のほととぎすの有名句を紹介します。 *写真は深川芭蕉庵前の隅田川、脛をうたれない ピア先の 青鷺です。 chatGPT斎 今日の一句   青鷺が 沈む水面に 誰かの影

蕪村 岩倉の狂女恋せよ子規 5月24日(旧暦 四月五日)水曜日

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岩倉の狂女恋せよ子規 蕪村 安永二年四月四日(1773年5月24日)、京での吟。蕪村句集では前書はありませんが、自画讃では「数ならぬ身はきき侍らず」と詞書があるそうです。これは、徒然草百七段の 「 時鳥や聞き給へると問ひて心見られけるに、某の大納言とかやは、数ならぬ身はえ聞き候はず、と答へられけり。堀川内大臣殿は、岩倉にて聞きて候ひしやらん、と仰せられたりける」を引いた句であることを示しています。しかし、句集編纂にあたり詞書を省略していますので、独立した句として取り扱うとの意思だったのでしょう。 では、なぜ徒然草のエピソードがなくとも成立つかと言いますと、そもそも岩倉大雲寺は徒然草の時代の遥か前、平安中期に時の皇后 の精神病治療に貢献するなど精神疾患治療する施設として有名でした。そして「 江戸時代の前期、 大雲寺 の周囲に各地から参集した精神病者とその家族のための茶屋が4軒以上」あったそうですから、徒然草がなくとも「岩倉の狂女」で京都の人々には十分理解できたのです。 徒然草は明らかに「岩倉」を否定的に見ていますしからかってもいます。蕪村は「狂女」に寄り添っているというより、恋しているように感じます。ちょっと言い過ぎかもしれませんが…  この時期になると、ほととぎすの声が聞こえるのではないかと耳を澄ませますが、老鶯の声ばかりでめったに聞けません。「数ならぬ身」だからでしょうか。 chatGPT斎 今日の一句   鏡に映る 狂女の笑みは 夢か現か

芭蕉 木啄も庵は破らず夏木立 5月23日(旧暦 四月四日)火曜日

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木啄(きつつき)も庵(いほ)は破らず夏木立 芭蕉 元禄二年四月五日(1689年5月23日) 黒羽浄法寺桃雪邸に逗留していた芭蕉と曽良は、雲巌寺を参詣します。その時の詠です。 「おくのほそ道」には、掲句を「とりあへぬ一句を柱に残侍りし。」として収録されていますが、曽良の旅日記俳諧書留に「四月五日、那須雲岩寺に詣で仏頂和尚旧庵を尋/木啄も庵は破らず夏木立 翁」と記されていますので、元禄二年の今日、芭蕉が詠んだことが間違いありません。 chatGPT斎 今日の一句   かたつむりの 背負った夕焼け 巻き戻してる

蕪村 鮒ずしや彦根が城に雲かかる 5月22日(旧暦 四月三日)月曜日

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  鮒ずしや彦根が城に雲かかる 蕪村   安永六年四月十六日(1777年5月22日)の詠。 大津辺りで鮒ずしを賞味しながら、遥かに彦根方向を望んでの句のように読めますが、  鮓つけてやがて去ニたる魚屋かな 鮓おしてしばし淋しきこゝろかな 鮓を圧す我レ酒醸す隣あり  も同日吟なので、実際はこの日、蕪村は京の自宅で熟れ鮓を漬けて、詠んだものではないでしょうか。 蕪村は事情があって兵庫の逼塞していた大魯宛五月十七日付書簡で、「此句解スべく解すべからざるものニ候。(略)いかゝ、御評うけ給りたく候」と元気づけるためか、句の評価を依頼しています。 chatGPT斎 今日の一句   城崩れ 悠々としてた アリの巣

其角 けしの花朝精進の凋れかな 5月21日(旧暦 四月二日)日曜日 小満・蚕起食桑(かいこおこってくわをくらう)

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けしの花朝精進の凋れかな 其角 元禄三年四月十三日(1690年5月21日)の吟です。 前年の元禄二年四月三日(1689年5月21日)、黒羽に向けて那須野を芭蕉は野飼いの馬にのり、曽良は徒歩で進んでいました。この時空が詠んだ句として  かさねとは八重撫子の名成べし  が「おくのほそ道」に書かれていますが、後日芭蕉の代作の可能性が大きいようです。 chatGPT斎 今日の一句   けしの花 パン屋の前で 踊る電球

芭蕉 能なしの寝たし我をぎやうぎやうし 5月20日(旧暦 四月朔日)土曜日

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  能なしの寝(ねむ)たし我をぎやうぎやうし(行々子*) 芭蕉 元禄四年四月二十三日(1691年5月20日)、芭蕉は引き続き嵯峨野の落柿舎に滞在しています。 「暮に及て去来京より来ル。膳所昌房ヨリ消息。大津尚白より消息有。凡兆来ル。堅田本福寺**訪(おとづれ)テ其(夜)泊。凡兆京に帰ル。」と日記に書き残しています。掲句はこの時の吟です。 凡兆は、「題落柿舎」として、 豆植うる畑も木部屋も名所かな  の句を詠みました。 *「行々子」はオオヨシキリ。「ギョギョシ、ギョギョシ」と鳴くことから。 **本福寺住職の千那。 chatGPT斎 今日の一句   昼寝の間 夢の中から聞く 鳥の声 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年05月」の「五月二 日」欄からの引用です。 八 十 八 夜 遠葭切 ( とおよしきり) をしかと 聞 き く 瀧 春一 潮来あたりの水郷の人の話では、葭切は必ず五月の八十八夜になると来るという。実際、八十八夜に水郷で聞いた声は、まぎれもなく葭切だった。 「瀧 春一集」 自註現代俳句シリーズ三( 一九)

芭蕉 あらたふと青葉若葉の日の光 5月19日(旧暦 三月三十日)金曜日

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あらたふと青葉若葉の日の光 芭蕉 「おくのほそ道」で元禄二年四月朔日(1689年5月19日)に日光で詠んだとされています。しかしこの句のもとになる句は、その前日、室の八島で詠まれたらしい  あらたふと木の下闇も日の光  と思われます。元禄二年の今日東照宮を参拝して、改案を思いついたのかもしれません。 今日詠まれたとされる名句がこの他多くあります。 芭蕉が杜国と共に兵庫、須磨、明石を巡覧、須磨に泊まった貞享五年四月二十日(1688年5月19日)に詠んだと「笈の小文」に書かれていますが、執筆時であったかもしれません。  月はあれど留守のやうなり須磨の夏  蛸壺やはかなき夢を夏の月  蕪村が安永六年四月十三日(1777年5月19日)の句会で詠んだ  方千里雨雲よせぬぼたむ哉  ただし、本句の当日初案は「雨雲尽きて」だったとのことですが。 chatGPT斎 今日の二句   青葉の 色が変わる前に 散り行く     青葉が空を覆い尽くす時、魔女目覚める 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年05月」の「五月十八 日」欄からの引用です。 椎若 葉 蔵 へと 運 ぶ 陶 (すえ) 火 鉢 宮田正和 法事などがあると蔵から鉢や皿、火鉢などが運ばれる。終ると又、納い込む。峡の人々の実直な暮し。 「宮田正和集」 自註現代俳句シリーズ六( 一三)

芭蕉 入りかゝる日も程々に春のくれ 5月18日(旧暦 三月二十九日)木曜日

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入りかゝる日も程々に春のくれ 芭蕉   元禄二年三月二十九日(1689年5月18日すなわち新暦と旧暦の暦が2023年の今日と全く同じ日)に、おくのほそ道の旅に深川を出立して三日目、間々田宿を出た芭蕉は小山宿で日光街道を逸れて室の八島に参詣しました。「おくのほそ道」には収録されませんでしたが、この時、 糸遊に結つきたる煙哉   入りかゝる日も糸遊の名残哉  という歌枕を題材の句を詠んでいます。曽良の「旅日記 俳諧書留」に「糸遊の名残哉」の横に「程々に春のくれ」と併記してあり、芭蕉の推敲の句が掲句です。元禄二年三月は小の月でしたから、この日は「三月尽」、暦の上では春の終わる日に当たってたので、季への挨拶に一応詠んでみたといったところかもしれません。 今日の栃木県は快晴で32~3度とこの時期にしてはとんでもない暑さでした。元禄二年はそれほどのことはなかったでしょうけれど、新暦で5月18日ですから「春の暮」とはとても感じられなかったに違いありません。 chatGPT斎 今日の一句   春暮れの空気、突如として滑稽な夢

芭蕉 ほとゝぎす大竹藪をもる月夜 5月17日(旧暦 三月二十八日)水曜日

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ほとゝぎす大竹藪をもる月夜 芭蕉  「嵯峨日記」元禄四年四月二十日(1691年5月17日すなわち332年前の今日)の条、「二十日 北嵯峨の祭見むと、羽紅尼来ル。去来京より来ル。途中の吟とて語る。/つかみあふ子共の長や麥畠 /(略) 竹縁の前に柚の木一もと、花芳しければ、/  柚の花や昔しのばん料理の間  /ほとゝぎす大竹藪をもる月夜」とあり、次に掲句が記されています。 羽紅尼は、昨日より落柿舎に来ている凡兆の奥さんです。昨日いったん帰った去来も、「菓子・調菜の物など」を持って来訪して、「今宵は羽紅夫婦をとヾめて、蚊帳一はりに上下五人挙リ伏たれば、夜もいねがたうて、夜半過ぎよりをのをの起出て、昼の菓子・盃など取出て、暁ちかきまではなし明ス。」 この日、羽紅は、 又や来ん覆盆子(いちご)あからめさがの山  と詠んでいます。 chatGPT斎 今日の一句   妖しい光 竹林を照らす 蛍の夜 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年05月」の「五月二十三 日」欄からの引用です。 この 新樹月光 さへも 重 しとす 山口青邨 夜の新樹は、黒々として、静かにその若葉の枝を延している。重なりあった若葉は弱々しいが、若葉らしい新鮮さを、その浅緑とを夜の闇の中にひろげている。月光がさしているが、新樹のみずみずしさは、月光の重さにじっと耐えているかのようである。( 透)   「山口青邨集」 脚註名句シリーズ一( 二〇)

芭蕉 うきふしや竹の子となる人の果 5月16日(旧暦 三月二十七日)火曜日 竹笋生(ちくかんしょうず)

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うきふしや竹の子となる人の果 芭蕉 「嵯峨日記」二日目、元禄四年四月十九日(1691年5月16日すなわち332年前の今日)の条、「 十九日 午半、臨川寺ニ詣。大井川前に流て、嵐山右ニ高く、松の尾里につヾけり。虚空蔵に詣ル人往かひ多し。松尾の竹の中に小督屋敷と云有。都て上下の嵯峨ニ三所有、いづれか慥ならむ。彼仲国ガ駒をとめたる處とて、駒留の橋と云、此あたりに侍れば、暫是によるべきにや。墓ハ三間屋の隣、薮の内にあり。しるしニ桜を植たり。かしこくも錦繍綾羅の上に起臥して、終藪中に塵あくたとなれり。昭君村の柳、普(巫)女廟の花の昔もおもひやらる。 (掲句) 嵐山藪の茂りや風の筋 斜日に及て落柿舎ニ歸ル。凡兆京より來。去來京ニ歸る。宵より伏。」とあります。今日は七十二候の「竹笋生」です。 chatGPT斎 今日の一句   竹の子掘り その手の泥で 嗽(くちすすぐ) 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2022年05月」の「五月二十 日」欄からの引用です。 物 いはず 筍 をむく 背 おそろし 西東三鬼 言葉で語らないが、背中で物を言っているわけである。それが怖しい。筍は手間のかかる食物。それを作者に食べさせるためにむいているのであるから、よけいに怖しい。『変身』   「西東三鬼集」 脚註名句シリーズ一( 九)

蕪村 衣更野路の人はつかに白し 5月15日(旧暦 三月二十六日)月曜日

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眺望 衣更野路の人はつかに白し 蕪村 明和六年四月十日(1769年5月15日、254年前の今日)京での吟。  痩臑(やせずね)の毛に微風あり更衣   衣がヘ人も五尺のからだ哉  も同じ日。「はつかに」は「わずかに」の意。 なお、今日は、332年前、四十八歳の芭蕉が嵯峨野の落柿舎に入った日でもあります。 1691年5月15日すなわち「元禄四辛未卯月十八日、嵯峨にあそびて去来ガ落柿舎に到。凡兆共ニ来りて、暮に及て京ニ歸る。予は猶暫とヾむべき由にて、障子つヾくり、葎引かなぐり、舎中の片隅一間なる處臥處ト定ム。机一、硯、文庫、白氏集・本朝一人一首・世継物語・源氏物語・土佐日記・松葉集を置、并唐の蒔繪書たる五重の器にさまざまの菓子ヲ盛、名酒一壷盃を添たり。夜るの衾・調菜の物共、京より持来りて乏しからず。我貧賎をわすれて清閑ニ樂。」と「嵯峨日記」に記しはじめ五月四日まで逗留することになります。 chatGPT斎 今日の一句   衣替え 胸にしまった 思い出 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年05月」の「五月十 日」欄からの引用です。 更 衣 樹々 すれ 合 つて 風発 っ す 小谷舜花 ここちよい五月のある晴れた日の感懐。樹々が心地よさそうに、木の葉が快楽のように揺れた。 「小谷舜花集」 自註現代俳句シリーズ七(二一)

一茶 目覚しのぼたん芍薬でありしよな 5月14日(旧暦 三月二十五日)日曜日

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  目覚しのぼたん芍薬でありしよな 一茶 「花嬌仏の三回忌俳莚旧懐」と前書あり、文化九年四月四日(1812年5月14日すなわち211年前の今日)、上総富津*で詠まれました。 花嬌は富津の女流俳人で文化七年四月三日没。「七番日記」によりますと、一茶は三月二十八日に富津に入り、三日に花嬌三回忌、四日に花嬌追善会とあります。また、二日後の六日「大晴、白老来」とあり、上総矢那**の高蔵寺(高蔵観音)に芭蕉の句碑(「 やがて死ぬけしきはみえず蝉の声 」を建立した白老が来訪して、その句を発句に脇起歌仙を二人で巻いています。脇は、  何わすれ草***あかあかと咲く  白老。第三は、 むら雨の臼十ばかり月さして  一茶です。 *現在の千葉県富津市富津  **千葉県木更津市矢那 この句碑は現在も高蔵寺に残っています。***藪萱草、 朝に開いて夕方にしぼむ一日花で、花屋若芽など食用になる他、葉と根が利尿剤、蕾が熱さましの生薬になる薬草。 chatGPT斎 今日の一句   芍薬の香り 吐くときだけ 目覚める 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2022年05月」の「五月二十六 日」欄からの引用です。 しんかんと 日 のおもくなる 黒 牡 丹 野澤節子 東京新宿区の薬王院へ牡丹を見に行った。緋牡丹、白牡丹とさまざまな美しさの中、入り口に近いところにあった黒牡丹にことに惹かれた。日差しが重いと感じさせるまでの存在感であった。「しんかんと」という措辞に、黒牡丹を包む重々しさと静けさがある。   「野澤節子集」  脚註名句シリーズ二( 六)

一茶 かきつばた烟かゝらぬ花もなし 5月13日(旧暦 三月二十四日)土曜日

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かきつばた烟かゝらぬ花もなし 一茶   「寛政三年紀行」四月十一日(1791年5月13日、232年前の今日)の条に、「十一日 浦和の入口に月よミに宮あり。いさゝかの森なれど、いとよく茂りぬ。  わる眠い気を引立るわか葉哉   大宮といふ所に、むさしの国一の宮といふ大社有。(略)この里ハ、家々のいただきにさまざまの草を植る。何となくいにしへめきて、さながら巣居のありさまとも思ふ。(掲句)熊谷本町三浦玄正ニやどる。」とあります。  浦和は中山道日本橋を出て3番目の宿場で、次が大宮宿、熊谷塾は8番目、浦和宿から熊谷宿まで約十里。「この里」は大宮ではなく、熊谷宿の一つ手前の「鴻巣宿」のことかもしれません。もしそうなら、「家々の」以下は、「鴻巣」という地名からの連想で「わる眠い気」のなせる幻影であると読んでみたくなります。ただし「芝棟(草棟)」の民家は岩手県に多いものの東北や関東に残されており、埼玉でも当時普通に見られたはずで、かきつばたと似た花の咲くイチハツが棟に植えられていました。一茶は、その花の咲いた屋根を見たに違いありません。 chatGPT斎 今日の一句   杜若の花びらに転がる妄想の数々

山頭火 ツルバシぶちこんで熱い息はいて 5月12日(旧暦 三月二十三日)金曜日

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ツルバシぶちこんで熱い息はいて 山頭火 其中日記1933年5月12日(昭和八年四月十八日)の条に「晴、上々吉の天候でもあり気分でもあつた。/旅立の用意いろいろ、これも身心整理の一端だ。/八時頃から行乞と出かける、山口まで急行、四時間あまり行乞、帰庵の途中――農学校附近で、六時のサイレンを聞いた。/新聞も今日限りで一時購読中止。」と記録しています。掲句は、この日山口~小郡で詠まれたものです。 山頭火は、翌13日「今日はいよいよ行乞の旅へ旅立つ日だ。」と書いて、「安住」の其中庵を後にしました。 chatGPT斎 今日の一句   黒く照りつける線路 脳天焼け  

寂照 夏草よ吾妻路まとへ五三日 5月11日(旧暦 三月二十二日)木曜日 蚯蚓出(きゅういんいずる)

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夏草よ吾妻路まとへ五三日 寂照 * 脇は芭蕉  かさもてはやす宿の卯の雪  鳴海の知足亭からいったん熱田に引き返し桐葉らと歌仙興行に明け暮れていた芭蕉は、九日また鳴海に戻ります。「知足斎日々記」貞享二年四月九日(1685年5月11日)の条に「江戸深川元番所森田惣左衛門御屋敷松尾桃青芭蕉翁一宿 如意寺にて俳諧歌仙有」と記されており、この時の歌仙の発句が掲句です。また、この記述より当時の芭蕉庵は深川元番所にあったことがわかります。そして翌日「十日 青天 桃青丈江戸へ御下り。」とあり、芭蕉は江戸に向かいます。 *寂照は、知足の剃髪後の号。なお、「五三日」は数日の意。 chatGPT斎 今日の一句   夏草の中で迷い続けた鶴はいつ飛ぶ  

一茶 茨の花爰をまたげと咲きにけり 5月10日(旧暦 三月二十一日)水曜日

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  茨(ばら)の花爰(ここ)をまたげと咲きにけり    一茶  「寛政三年紀行」四月八日(1791年5月10日、232年前の今日)の条に、「八日 晴 古郷へ足を向んといふに、道迄同行有。二人ハ女、二人ハ男也。行徳より舟に乗て、中川の関といふにかゝるに、防人、怒の眼おそろしく、婦人をにらミ返さんとす。是おほやけの掟ゆるがせにせざるハことわり也。又舟人いふやう、『藪の外より、そこそこの内を通りて、かしこへ廻れ』といふ。とく教のまゝにすれば、直に関を過る事を得たり*。(略)隅々ミの下闇を見逃すとハ、ありがたき御代にぞありける。」として掲句を詠みました。一茶は翌日九日は江戸で過ごし、「十日 晴 大聖殿の前より本郷にかゝる。是古郷へ行道の入口也。前途百万歩胸につかへて**、とある木陰に休む。」と、中山道を経て北国街道柏原宿に向けて旅立ちます。 *旧中川の小名木川河口に設けられていた船番所「中川の関」で、番人から見咎められそうになった婦人二人が船頭に教えられた抜け道で無事関所を通過できました。男は原則関所手形は不要でしたが、女は必須で厳しく取り調べるという掟だったものの、細々したところは見逃すといった緩い運用の、庶民にはいい時代だったようです。小名木川は旧中川と隅田川を結ぶ人工川で、隅田川の河口には深川芭蕉庵がありました。 **「おくのほそ道」の「前途三千里のおもひ胸にふさがりて」を踏まえています。 chatGPT斎 今日の一句   薔薇の鳥かごに閉じ込められた虎 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年05月」の「五月六 日」欄からの引用です。 少 女 らも 跳 び 越 え 薔薇 の 柵 無 傷 仲村青彦 教会の花壇は柵が白く低かった。バラのかおりが道路を超えて遠くまでただよっていた。 「仲村青彦集」 自註現代俳句シリーズ一一(五八)

山頭火 ふるさとの夜がふかいふるさとの夢 5月9日(旧暦 三月二十日)火曜日

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  ふるさとの夜がふかいふるさとの夢 山頭火 1931年5月9日(昭和六年三月二十二日)の条に「曇、歩いて三里、汽車で五里、樹明居(小郡)/文字通りの一文なし、といふ訳で、富田、戸田、富海行乞、駅前の土産物店で米を買うていたゞいて小郡までの汽車賃をこしらへて樹明居へ、因縁があつて逢へた、逢ふてうれしかつた、逢ふだけの人間だから。/街の家で飲んで話した、呂竹、冬坊、俊の三君にも逢つた、呂竹居に泊る、樹明君もいつしよに。(後略)」(「行乞記」) とあり、掲句はこの時小郡で詠まれたものです。 こんやはここで寝る鉄瓶の鳴る(呂竹居) も同日の吟。 chatGPT斎 今日の一句   崩れた町 蒼い空に描く 幻の景色

一茶 行々し下手盗人をはやすらん 5月8日(旧暦 三月十九日)月曜日

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  行々(ぎょうぎょう)し下手(へた)盗人をはやすらん 一茶    文化七年四月六日(1810年5月8日すなわち213年前の今日)、「六日。曇。田川*に入。いづこより来りけん、年四十ぐらゐなる男、郷のせど門ひそひそさまよひけるが、ある垣根に古衣ほしてありけるを、鳶のさらひに袂にかくし迯さりけり。やらじと畠の人々馳よりて、つひに引きとらへツゝ、二ツ手に五尺斗の竹ゆひ添へ、棒縛りといふものにして、(略) 疫神送るやうに鉦鼓打ならして、村はづれの川原に追放ちぬ。其罪にくきハさらに忘れて、いと興ある見ものにぞ。」とし、掲句。(「文化句帖補遺」**)「行々し(子)」はオオヨシキリのことで、その鳴き声からの名です。 写真は北國新聞「 名手、華やかに初春彩る 県立音楽堂で新春檜舞台」より。 *現在の 茨城県稲敷郡河内町田川。「村はずれの川原」は利根川です。 **「七番日記」にも同様の記事がありますが、「川原」は「川西の堤」になっているなど少し異なっているほか、「日記」の文の末は、掲句ではなく「是、悪を責ることの甚しからざるハ、おのづから聖人の心にかなふべし。」となっています。 chatGPT斎 今日の一句   囃す夜の風に揺れるポットの中

芭蕉 梅こひて卯の花拝むなミだかな 5月7日(旧暦 三月十八日)日曜日

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梅こひて卯の花拝むなミだかな 芭蕉 「野ざらし紀行」に「此僧*予に告げていはく、円覚寺の大顚和尚**、今年睦月の初、迁化し玉ふよし。誠や夢の心地せらるゝに、先、道より其角が許へ申遣しける。」としてこの句が掲げられています。 この日、貞享二年四月五日(1685年5月7日、338年前の今日)付の其角宛の書簡が残されています。「(略)今ほど帰庵に趣き、尾陽熱田に足を休る間、(略) 月まだほのぐらきほど、梅のにほひに和して遷化したまふよし、こまやかにきこえ侍る。旅といひ、無常といひ、かなしさいふかぎりなく、折節のたよりにまかせ、先一翰投机右而已。  梅恋て卯花拝ムなみだかな  ばせを」 *路通の事。 **円覚寺第164世住持。其角の禅の師で、自筆年譜に十六歳「 円覚寺大顚和尚詩学 易伝授 」と記しており、「其角」号の名づけ親です。 chatGPT斎 今日の一句   卯のはなの 花弁ごとなり 月明り

芭蕉 杜若われに発句のおもひあり 5月6日(旧暦 三月十七日)土曜日 立夏・蛙始鳴*(かえるはじめてなく)

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杜若(かきつばた)われに発句のおもひあり 芭蕉   「知足亭庭前にて」と前書。(「芭蕉翁発句集」) この句は貞享二年四月四日(1685年5月6日すなわち338年前の今日)、三河鳴海宿の知足亭での九吟二十四句興行での発句です。亭主の知足が付けた脇は、 麦穂波寄るうるほひの末  第三は桐葉  二つして笠する烏夕ぐれて 。 昨年貞享元年八月に江戸を出立(「野ざらし紀行」)した芭蕉は、伊賀上野で越年し、この後熱田・鳴海にしばらく滞在、四月末頃江戸にもどります。なお、熱田・鳴海には前年十一月にも訪れ桐葉や知足らと連句を巻いています。 *貞享暦では、鵑始鳴(ほととぎすはじめてなく)でした。 chatGPT斎 今日の一句   燕子花(かきつばた)に 手を振る影は なんの人 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2023年05月」の「五月三十一 日」欄からの引用です。 かきつばた 日 本 語 は 舌 なまけゐる 角谷昌子 青少年海外派遣の通訳ボランティアに15年ほど携わり、各国語に挑戦したところ、日本語は本当に舌を動かさない言語だと実感しました。 角谷昌子  角川『俳句』2019年7月号

一茶 笠の露眠むらんとすれば犬の声 5月5日(旧暦 三月十六日)金曜日

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 笠の露眠むらんとすれば犬の声 一茶 寛政七年三月十七日(1795年5月5日、228年前の今日)、一茶は「明石より兵ごの道連あれば、夜道して、同行二人、頻に眠気催れば、軒をかりて」(「西国紀行」)と前書して掲句*を詠みました。現在の芦屋か西宮あたりだったかもしれません。十七日ですから、夜道は明るかったのでしょう。 続けて「夜ハほのぼの明比、大坂に来る。黄花庵**を主とす。題庭前、相見。二十里也。/ 松そびへ(え)魚をどり春む情(を惜)む哉 」と「西国紀行」にあります。「二十里」は明石から大坂までの距離だとすれば、少しオーバーで、十五里・60kmくらいじゃないでしょうか… *芭蕉「野晒紀行」に「草枕犬も時雨るかよるのこゑ」があります。 **黄華庵升六。大阪俳壇の有力者で、高津宮近くに住んでいたそうです。 chatGPT斎 今日の一句   水鏡に 反射した鯉 やわらぐ

一茶 青梅に手をかけて寝る蛙かな 5月4日(旧暦 三月十五日)木曜日

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  青梅に手をかけて寝る蛙かな 一茶 「寛政三年紀行」四月二日(1791年5月4日すなわち232年前の今日)の条に、「二日 新川*枕流亭ニ宿る 青梅に手をかけて寝る蛙かな /南道老人、みちのくへ行といふニ 飛ぶことなかれ汲むことなかれ山清水」とあります。  三月二十六日に江戸を出立した一茶は、各地を巡って俳友を訪ね、この日は下総新川にありました。この後、香取神宮まで脚を伸ばしてから、信濃柏原に里帰りするため江戸に引き返します。 *今の成田市新川。枕流、南道ともに俳人 chatGPT斎 今日の一句   庭の花 切るや初めて 蝉を聞く

蕪村 菜の花や月は東に日は西に 5月3日(旧暦 三月十四日)水曜日

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  菜の花や月は東に日は西に 蕪村     安永三年三月二十三日(1774年5月3日、249年前の今日)、蕪村は几董と伊勢山田の三浦樗良を京に迎えて三吟歌仙興行を行い、掲句はその発句*です。「几董宿の日記」に「三月二十三日即興」として一巻が収録**されています。 脇 山もと遠く鷺かすみ行 樗良、第三 渡し舟酒債(さかて)貧しく春くれて 几董 *「蕪村句集」には、「春景」と前書して「なの花や月ハ東に日ハ西に」として掲載。句が描くのは十三夜あたりのようですから興行した二十三日の情景ではありません。 **同日記には「同夜漫興」として三吟歌仙がもう一巻収められています。「発句 彳(たたずめ)ば花もたゝずむ山路かな 樗良、脇 声ひやゝかに鳥のさへずる 几董、 日暮々々むかし顔なる春の月  蕪村」 chatGPT斎 今日の一句   菜の花が 月に変わりたがる 夜中

山頭火 衣がへ、虱もいつしよに捨てる 5月2日(旧暦 三月十三日)火曜日

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  衣がへ、虱もいつしよに捨てる   山頭火 「行乞記」1932年5月2日(旧昭和七年三月二十七日)の条、「五月は物を思ふなかれ、せんねんに働け、といふやうなお天気である、かたじけないお日和である、香春岳がいつもより香春岳らしく峙つてゐる。早く起きる、冷酒をよばれてから別れる、そつけない別れだが、そこに千万無量のあたゝかさが籠つてゐる。(中略)今日の道はよかつた、いや、うつくしかつた、げんげ、たんぽゝ、きんぽうげ、赤いの白いの黄ろいの、百花咲きみだれて、花園を逍遙するやうな気分だつた、山もよく水もよかつた、めつたにない好日だつた(それもこれもみんな緑平老のおかげだ)、朝靄がはれてゆくといつしよに歯のいたみもとれてきた。」 山頭火は現在の北九州市辺りを行乞中で、この日は呼野(現小倉南区)に宿泊しました。 香春をまともに別れていそぐ / 別れてきて橋を渡るのである / ひとりとなつてトンネルをぬける  などの句もこの日詠んでいます。 chatGPT斎 今日の一句   衣替え 新しい自分に 向き合う 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年05月」の「五月二十七 日」欄からの引用です。 衣 更 へしあとか 夢 二 の 女 どち 山上樹実雄 竹下夢二の生家が郷土美術館として保存され幾つかの夢二式美人画も展示。薄物を身に愁を含んで夢をみるような大きな眼が何かを訴えている。 「山上樹実雄集」 自註現代俳句シリーズ五( 五五)