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一茶 寝すがたの蠅追ふもけふがかぎり哉 6月30日(旧暦 五月十三日)金曜日

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寝すがたの蠅追ふもけふがかぎり哉 一茶 「廿日 熱ハ次第に盛にして、朝ハ淡粉(あはこ)一ツばかりたうべ給ひしが、昼比より御皃(かほ)のけしき青々と、目ハ半(なかば)ふさぎ給ひ、物ばしの給ひたきやう唇うごかし給ふばかり、いづる息引くいきに、痰ハころころと命を責メ、是さへ次第によわり給ひ、窓さし入る日影も未の歩ミ近(ちかづ)く比、人の俤も見ワき給ず、よろずたのミすくなきありさま也。(略) 只念仏申より外にたのミハなかりき。」として掲句が記されています。享和元年五月二十日(1801年6月30日)のことです。 この年三月、3年ぶりに帰郷していた一茶は、たまたま四月二十三日に倒れた父弥五左衛門の看病につき、臨終を看取ることになります。 「廿日の月ハ窓をてらし、隣々ハ寝しづまりてハ、八声の鶏も遠く聞ゆる比ハ、しきりに息の通ひも低くなり、(略) 天神地祇もあはれミもなく、夜ハほがらに明かゝり、卯ノ上刻といへる比、眠るごとく息たへさせ給ひけり。」 5-5-8の破調で、「の」、「も」で切れて、本来の切れ字「哉」で執着がありすぎる、一茶の実父を想う気持ちが強く出ている一句です。 chatGPT斎 今日の一句   父の影 蠅の音に 揺れている

芭蕉 夏草や兵どもが夢の跡 6月29日(旧暦 五月十二日)木曜日

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夏草や兵どもが夢の跡  芭蕉 曽良の旅日記に「十三日、天気明。巳ノ剋ヨリ平泉ヘ趣。(略) 高館、衣川、衣ノ関、中尊寺(別当案内)光堂(金色堂)、泉城、さくら川、秀衡屋敷等ヲ見ル。」と書いたのは、元禄二年五月十三日(1689年6月29日)のことです。  この日高館において、芭蕉は「偖(さて)も義臣すぐって此の城にこもり、功名一時の叢となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ」と書いています。そして掲句を記しています。当日詠んだ句のように思われますがが、曽良の旅日記俳諧書留には記載がありませんので残念ながらそうではなく後日の作かもしれません。 掲句の初出は、元禄三年八月京都で出版された大坂の灯外編の「俳諧生駒堂」で、「平泉古戦城 路通が語りしを聞て  なつ草や兵どもの夢の跡 」となっています。元禄二年八月に路通は敦賀まで芭蕉を迎えに行き、大垣、伊勢迄同行していますから、その折にこの句を聞き知っていたのでしょう。それを編者の灯外あるいは灯外と親しいと思われる鬼貫に語ったものでしょう。鬼貫は奥州藤原氏の裔という伊丹の造り酒屋の生まれでした。 chatGPT斎 今日の一句   夏の夢 煌めく海と 星の語り

蕪村 鮓漬けて誰待つとしもなき身哉 6月28日(旧暦 五月十一日)水曜日

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鮓漬けて誰待つとしもなき身哉 蕪村 蕪村自身のことを詠んだ句のようにも思いますが、明和八年五月十六日(1771年6月28日)京都東寺奥の坊の会、兼題「鮓」による吟だそうです。 同日の句に、 桶をこれへと樹下に床几哉  木のもとに鮓の口切あるじかな  がありますので、もしかしたら蕪村の体験からきているのかもしれません*。 掲句に対して、弟子の召波**の「 鮓おして我は人待つ男かな 」があります。芭蕉に「 角が蓼蛍の句に和す  朝顔や我は飯食う男かな」と、弟子である其角の「 草の戸に我は蓼食ふ蛍哉」に対して詠んだ句があり、掲句と召波の句と似た関係になっています。師匠と門弟を逆転させた召波の洒落っ気でしょう。 *6年後となります安永六年(1777年)の句「 鮓おしてしばし淋しきこゝろかな 」などを掲載しています5月22日の項も参照ください。 ** 召波はこの年明和八年十二月に亡くなります。享年四十六歳、蕪村より12歳年下でした。 chatGPT斎 今日の一句      蛍光灯に 映る鮓の 寂しさよ

其角 沓作り藁打宵の蚊遣哉 6月27日(旧暦 五月十日)火曜日 菖蒲華(しょうぶはなさく)

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沓作り藁打宵の蚊遣哉 其角 「市の仮屋のいぶせきに」と前書があります。常設でない市の仮小屋が汚らしかったのでしょう。ふつう藁仕事は冬ですからこの時期の藁なら麦藁です。そこで麦藁の笠などを掛け並べた店先で、どういうわけか冬に履くような藁沓を蚊遣を焚いて作っていたのかもしれません。 其角はそれがおかしくて詠みましたと想像します。もしかしたら、飾り物にする沓だったのかもしれませんが … 「花摘」元禄三年五月二十一日 (1690 年 6 月 27 日 ) の条です。同日には「旅人や暁がたの蚊の行衛 ( 沾荷 ) 」と「蚊遣火や結分たる縄簾 ( 百里 ) 」の句も掲載されていますので、題詠の可能性もありますが、前書から嘱目の句と思う方が楽しめます。 きっと珍しい光景だったのでしょう。 今日は、七十二候の「菖蒲華」です。 chatGPT斎 今日の一句   沓 底の 蚊の遺伝子 足跡に

其角 涼しい歟寝て髣剃ル夢心 6月26日(旧暦 五月九日)月曜日

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涼しい歟(か)寝て髣(つむり)剃ル夢心 其角 「あはれ成哉や親の子をおもふ」との前書。  節句の「かぶとうらやむわらべ」の頭を、汗疹ができないよう剃ってやるのでしょう、子煩悩其角。 それとも、また大酒飲んでの夢なのでしょうか… 元禄三年五月二十日(1690年6月26日)のことです。 Bing亭 今日の一句   子を思う 心はいつも 春の空

其角 いつの間にお行ひとりぞ夏の月 6月25日(旧暦 五月八日)日曜日

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いつの間にお行ひとりぞ夏の月  其角 「日待*酔しらけて、みな迯(にげ)ちりたるあとにひとり灯をかゝげたる有がたさよ」と前書があります。「花摘」元禄三年五月十九日(1690年6月25日)の条です。 酔って**眠りこけた其角ひとり残して日が明けるの待たずにか、明けた途端に講の参加者は帰ってしまったのでしょう。其角は日蓮宗ですから、宵の口はお上人のお経や太鼓などもあってにぎやかだったのでしょう。 *「広辞苑」によりますと、日待は「前夜から潔斎して寝ずに日の出を待って拝むこと。一般に正・五・九月のの吉日を選んで行い、終夜酒宴を催す。」とあります。15、19、23、26日や甲子(きのえね)・庚申に日が多かったようです。  **芭蕉の其角宛書簡に、尊朝親王の作といわれる飲酒一枚起請文を冒頭に記して説明したうえ、「ちょと写し来候。貴丈つねづね大酒をせられ候故、此御文句を写して大酒御無用候。云々」と弟子の大酒を気を使いながらも戒めています。 Bing亭 今日の一句   黙然と 宴了えたり 月明かり 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年06月」の「六月二十六日」欄からの引用です。 地震 ( ない) に 出 て 短 夜 の 月真 っ 赤 なり 米田双葉子 今まで経験したことのない強い地震で戸外にとび出した。道路も揺れていた。ふと見上げると真赤な月が真上にあった。気味の悪い赤さであった。 「米田双葉子集」 脚註名句シリーズ六( 四七)

一茶 暁の夢をはめなむ時鳥 6月24日(旧暦 五月七日)土曜日

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  暁の夢をは(食)めなむ時鳥 一茶  文化七年五月二十三日(1810年6月24日)、長沼*の門弟掬斗(きくと)邸で二十二日に句会があり泊まっていた一茶が、掬斗から見た夢を告げられて詠んだ句です。 「屍らしきものに荒綱つけて、川ニ入る児有。『なじかハかゝ拙き遊びす』と問へば、『是ハ一茶が亡がらなれば、しかじかせよと源蔵の老婆がいひし也、我々のわざくれならず。』と答る時、暁の烏のかまびすしく、門の蚊柱きえぎえに、夢ハ迹なくさめけるとや。げにげに我たまたま故郷に帰りて、二夜とも伏さず、又漂泊の身となりて、野を枕、草を敷寝として、南北呻(さまよ)ふ物から、友垣の真心よりかゝる夢も見るなるべし。」と日記に書き残しています。 地元共同体の一員として地道に暮らしている義弟と相続について争う、30年以上漂泊している一茶は、故郷の人々から疎まれており、そのことを今更ながらに気づかされた掬斗の夢でした。一茶は「そぞろにおそろしく覚え侍る」として、時鳥にその夢を食わせてしまいたいと詠みました。 なお、遺産相続問題が決着するのはこの時からまだ数年かかることになります。。 *現在の長野市穂保あたりにあった「東脇往還・谷街道」の宿場町。掬斗はそこで代々医を業としていました 。 Bing亭 今日の一句   夢見るは 時鳥の声か 夏の恋

其角 蚊の声も今朝よわるべし明長屋 6月22日(旧暦 五月五日)木曜日

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蚊の声も今朝よわるべし明(あき)長屋  其角 元禄三年五月十六日(1690年6月22日)の詠。「同じく住家かたづくるとて」と前書があります。 これは、「花摘」の掲句の前に「十五日芦屋が餞(はなむけ)  蛍なら夜道教ん我想  かしこ」が掲載されてますので、前日の夜引っ越していった芦屋という人への餞別句ということでしょう。九日の条に「贈芦屋 うつり香や虫干もせじ単物(ひとえもの) かしこ」とあります。 なお、十六日は、其角は「しなびたる法師の梅干しけるをみて  梅いくつ閼伽の折敷に玉あられ」の句も詠んでいます。 Bing亭 今日の一句   蚊の声に 目覚めて見るや 二十日月

其角 羽ぬけ鳥鳴く音ばかりぞいらご崎 6月23日(旧暦 五月六日)金曜日

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羽ぬけ鳥鳴く音ばかりぞいらご崎  其角 「いらごの杜国例ならで、うせけるよしを越人より申きこえける。翁にもむつまじくて、鷹ひとつ見つけてうれしと迄に、たづね逢ける昔をおもひあはれみて」と前書して、其角は詠んでいます。元禄三年五月十七日(1690年6月23日)のことです。 名古屋の越人から杜国訃報が届いたのでしょう。芭蕉は、貞享四年(1687年)十一月伊良湖崎に蟄居中の杜国を越人と尋ね、貞享五年(元禄元年1688年)伊勢で落ち合い春から夏にかけて吉野から須磨・明石に至る「笈の小文」の旅を共にしていました。芭蕉最愛の弟子杜国*が、三月二十日に亡くなりました。芭蕉が知ったのは四月上旬だったようです。 *元禄三年正月十七日付万菊丸(杜国)宛書簡に、芭蕉は「いかにしてか便も無御座候。若は渡海の舩や打われけむ、病変やふりわきけんなど、方寸を砕而已(くだくのみに)候」と書き出し、末尾には「正・二月之間、伊賀へ御越待存候」と杜国へ想いを伝えています。  Bing亭 今日の一句   雲間より 鷹が現れて消えるかな

芭蕉 卯花も母なき宿ぞ冷じき 6月21日(旧暦 五月四日)水曜日 夏至・乃東枯(ないとうかるる)

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卯花も母なき宿ぞ冷(すさま)じき 芭蕉 其角の母が四月八日に亡くなり、その五七忌の追善三ッ物の発句です。貞享四年五月十二日(1687年6月21日)「五七の日追善会」、脇を其角、第三を嵐雪が付けています。 香消残る短夜の夢 (其角)   色いろの雲を見にけり月澄て (嵐雪)  二十六歳の其角は、「四月八日、母のみまかるけるに  身にとりて衣がえうき卯月哉 」、また「初七ノ夜いねかねたりしに   夢に来る母をかへすか郭公 」と偲んでいます。* 今日は、二十四節季の夏至、七十二候の乃東枯、ウツボグサ**が枯れ始める時候となりました。 * 其角は、亡母の4回忌に当たる元禄三年(1690年)「追福の一夏百句を思い立ち」「花摘と名付侍る」句日記を残すことになります。 **6月20日前後にウツボグサを探し歩いたのですが、見つけることができませんでした。写真は、7月1日岩手県の鳴子温泉の近くで見かけたものです。さすがに北国のせいでしょうか、この時期まだ花が残っていました。(7/4追記写真共) Bing亭 今日の一句   卯花咲く 母の手紙に 春の便り

一茶 古郷やよるも障るも茨の花 6月20日(旧暦 五月三日)火曜日

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古郷やよるも障るも茨の花 一茶   昨日、実家を通り越して一里先の野尻宿の門人魯童亭に泊まった一茶は、「十九。雨。辰刻、柏原ニ入。」文化七年五月十九日 (1810 年 6 月 20 日 ) 早朝のことでした。 「小丸山 * 墓参。村長**誰かれに逢ひて、我家に入る。きのふ心の占のごとく、素湯 ( さゆ ) 一つとも云ざれば、そこそこにして出る。」として、掲句。この日は柏原の旅籠「小升屋」に宿泊、翌二十日夕方には柏原を離れ、信濃の門弟宅を尋ね歩き、二十七日小諸泊、六月朔日には江戸にもどります。 「村長誰かれ」との書きぶりからは、名主 ** も一茶の味方ではないようで、実家も「そこそこにして出る」始末ですから、わざわざ江戸から出向いたにもかかわらず遺産分割履行の協議は進まなかったようです。*** * 明専寺の墓地、一茶の父弥五兵衛の墓があります。今回の帰郷は、享和元年 (1801 年 ) 五月二十一日に亡くなった亡父の墓参の方に目的があったのかもしれません。  ** 名主中村嘉左衛門。一茶は、安永五年十一月付の「取極一札之事」という、義弟と遺言通り折半するという内容で遺産分割について具体的に取り交わした証文を、村役人に提出しています。この証文は、この「村長誰かれ」自身の名主中村嘉左衛門が書いたと言われています。 ***「茨の花」と題した文が残されており、「柱ともたれしなぬし嘉左衛門といふ人に、あが仏の書一枚いつはりとられしものから、(略)たのむ木陰も雨降れば、一夜やどるよすがもなく、六十里来りて、墓より直に又六十里外の東へふみ出しぬ。」とあります。「取極一札」作成したとき名主に、 一茶は 亡父直筆の遺言書を預けてしまったらしいとのことです 。 Bing亭 今日の一句   茨道 古郷に帰る 故人の声

一茶 いかめしき夕立かゝる柳かな 6月19日(旧暦 五月二日)月曜日

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いかめしき夕立かゝる柳かな  一茶  文化七年五月十八日(1810年6月19日)、痛い足を引きずりながら一茶は「漸古郷見ゆる二十塚といふ山ニいたる。むつまじき仲ならば、とくとく行て昼から寝ばやと思へど、かねがねねじけたる家内の輩、例のむくつけき行迹見んも罪作る。又一里越して、野尻魯童亭ニ泊。」とし、掲句と、 時鳥我湖水ではなかりけり 茶のけぶり仏の小田も植わりけり  の三句を「七番日記」五月十八日の条に記しています。 一茶は、「足のいたミ常ならず」と言いながら故郷柏原宿を通り越し、一里先の野尻宿*まで脚を延ばしています。「又」と書いてますから毎度のことだったのかもしれません。継母や義弟と会うのが、よほど気が進まなかったとみえます。 *北国街道の野尻宿(現在の信濃町野尻)で、中山道の野尻宿とはまた別です。「時鳥我湖水」句の湖は野尻湖のことで、宿場町はその湖畔にありました。 chatGPT斎 今日の一句   野茨の 風に心を 痛めおり

蕪村 若竹や橋本の遊女ありやなしや 6月18日(旧暦 五月一日)日曜日

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若竹や橋本の遊女ありやなしや 蕪村  安永四年五月二十一日(1775年6月18日)几董庵句会において、西行と江口の遊女の故事をもとにして詠んだものです。橋本に多い竹林のその若竹の奥には、西行の江口の君のごとき風雅の遊女がいかにも住んでいそうだ、いやいないか…  橋本は、京街道の淀宿と枚方宿の間、石清水八幡宮の麓の淀(澱)川に面した遊里で、江口は同じ淀川の河口付近にあった遊里です。 蕪村は安永六年二月、斬新な俳詩体の「春風馬堤曲」と「澱河歌」を発表します。「殿河歌」は、五言絶句2首と和詩1首の3首に「老鶯児 春もやゝあなうぐいすよむかし声」の句で構成されています。蕪村六十二歳、この年の夏「 六十の手習恥る夏書かな 」夏安居中の写経の手習いのような句を残していますが、還暦を迎えた安永四年頃から何か新しい試みに挑戦していたのかもしれません。 「春風馬堤曲」と「澱河歌」ともに季は春ですが、蕪村は掲句と「澱河歌」を賛とする扇面画を描き残しています。掲句を「澱河歌 夏」として、「澱河歌」は春となっています。「澱河歌」の第三首目の和詩「君は水上の梅のごとし花水に/浮で去こと急カ也/妾は江頭の柳のごとし影水に/沈でしたがふことあたわず」とあります。この梅と柳の君には「 水にちりて花なくなりぬ岸の梅 」、柳の君は「 一軒の茶店の柳老にけり 」との詠があり、それらに対しでは「竹の君」はといった趣向なのかもしれません。 chatGPT斎 今日の一句: 若竹に あら縄むすぶ おんなのて 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2023年06月」の「六月六日」欄からの引用です。 若竹 の 節 の 二十重 (はたえ) の 上 ( え) は 知 らず 大竹きみ江 一ときわ育ちのよい若竹を見上げた。白い粉を噴く幹の肌にもふれてみた。節の輪を重ねた穂の先に空が透いて見えていた。 「大竹きみ江集」 自註現代俳句シリーズ三( 八)

一茶 旅人に雨降花の咲ニけり 6月17日(旧暦 四月二十九日)土曜日

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旅人に雨降花の咲ニけり 一茶  文化七年五月十六日(1810年6月17日)の詠です。「七番日記」に「十六、昼より雨。浅野正見寺*泊。」として、掲句が記されています。雨降り花とは、雨の季節に咲く花のことで摘むと雨が降るといういわれを持つものが多く、ヒルガオ、ツリガネソウ、シロツメグサやイチリンソウ等を指すそうです。ここは「昼顔を云ふ」と注してあります。 一茶は、文化五年秋に帰郷し、義弟との間で遺産分割についての取り決めをしましたが、なかなか実行されませんでした。そこで再度談判のために、この年「けふハけふハと立おくれつゝ、入梅(つゆ)空いつ定まるべくもあらざれば、五月十日」五月雨の中、故郷柏原に向け江戸を出立しました。途中雨に降られることも多く、一茶は日記に「わらじ摺(ずれ)、鳩のやうにふくれて、歩行心に任せず」「足のいたミ常ならず、木末(こずえ)一本をあが仏とたのミて、僅五里ばかりを三日かゝて」云々と、芭蕉を見倣ってか殊更、道中**の難儀を書き残しています。 *現在の長野市豊野町浅野にある浄土真宗本願寺派寺院。住職が門人だったそうです。なお、一茶は熱心な浄土真宗信徒でした。 ** 江戸から北国街道柏原宿までは中山道経由して六十里。一茶は十八日に柏原を通り越し一里先の北国街道野尻宿まで行き、翌早朝に柏原入りしていますので、江戸から実質8日間、1日当たり七~八里歩いていることになります。日記の記述は、だいぶ脚色されているようです。 chatGPT斎 今日の一句   昼顔の なみだの傘の かなしみ 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年05月」の「五月二十三 日」欄からの引用です。 ひめぢよをん美しければ雨降りぬ 星野麥丘人 雨の中の姫女苑。雨はしばしば対象に効果を添える。だが、それはいいことであるか。あなたには雨の句が多いと言われたことがある。 「 星野麥丘人集」 続編現代俳句シリーズ一二

其角 あまざかる非人貴し麻蓬 6月16日(旧暦 四月二十八日)金曜日 梅子黄(うめのみきなり)

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あまざかる非人貴し麻蓬(あさよもぎ) 其角    「十日 三蔵といひけるかたいのもの、つづれたる袋より俳諧の歌仙取出して、点願はしきよしを申てしざりぬ。其巻の前書に、こゝにいやしき土の車の林の陰に身をかなしめる有と書り。いかなるものゝなれるはてにか有けん、かの巻の奥書に申つかはしける」とあります。元 禄三年五月十日(1690年6月16日)のことです。 「いやしき土の車の林の陰」とは、非人頭の車善吉の配下になってということでしょうか。「麻蓬」とは「麻中之蓬」のことで( 荀子の「 蓬生麻中、不扶而直(蓬モ麻中ニ生ズレバ、扶ケズシテ直シ」より)、其角は、天から遠い土の非人でも尊い人たちなので、たとえこじき ( 乞丐)のもの であっても、 おのずと正しくまっすぐな善人となると励ましています。けっして亡母追福一夏百句中だったからというわけではないでしょう。大名も非人、乞食も分け隔てない不羈なる其角であったと思いたいものです*。 *ひと月後の「花摘」六月十日の条に「 雨露は有漏の恵みぞもとの花の雨  車輪下非人」の句があります。「麻よもぎといふ句を結縁に申しつかはしたれば、我母の追善とて此句送りける也。翁歳旦に 、こもを着て誰人います花の春 、と聞こえしも未来記なるべし。」と其角追記しています。この三蔵とのやり取りを記した其角の書簡(写)が残っています。元禄三年、猿蓑編集中の加生(凡兆)と去来宛のもので、その末尾に其角は「乞食の文二通のぼせ候て、御めに掛け申度候へども、是は我等文庫の重宝ニて候まゝ、折あるべく候。季吟ハ公方様の御点者、私ハ乞食の師となり候事、天地懸隔に候へども、 此道の満足 御さつし可被候。」と書いています。北村季吟は元禄二年十二月幕府歌学方として召され江戸に下っていました。(2023.6.21) 今日は、七十二候の「梅子黄」です。 Bing亭 今日の一句   麻に蓬と 言われてもなお 愛しき人

芭蕉 すずしさの指図にみゆる住居哉 6月15日(旧暦 四月二十七日)木曜日

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すずしさの指図にみゆる住居哉 芭蕉  島田宿で三日の渡り止めのあと、十九日に知己たちの助けを得て、水嵩の高い大井川を越した芭蕉は、二十二日に名古屋に到着。その日は荷兮邸に泊り、翌日隠居所を造ろうとしている野水邸に遊んだ時の吟です。元禄七年五月二十三日(1694年6月15日)のことです。 芭蕉は、 閏5月の杉風宛書簡の追記に 「野水隠居所支度の折ふし」と前書して、「 涼しさを飛騨の工*がさしづかな 」と掲句を記して「 句作二色之内、越人 相談候住居の方をとり申候。飛騨のたくみまさり申べく候(哉)。」と書いています。** 「指図」は大工棟梁が板などに書いた建物の計画図です。それにしても、専門家ではない芭蕉が設計図を見て建物の出来上がりがわかるのはすごいと思います。全員というわけではないでしょうが、そのような文化が江戸時代あったのですね…。 *奈良時代以前より、税を免除する代わりに「 匠丁」(木工)を 飛騨の国から 徴用する規定が律令に定められ、平安末期まで続きました。この制度によって都に送り出された「飛騨のたくみ」達は新都造営や多くの建築物に携わり、優れた建築技術を持つ者として「源氏物語」や「今昔物語」にも登場します。大和三山の中央に位置する、芭蕉の時代「飛騨村」と呼ばれていた現在の橿原市飛騨町はじめ、畝傍山の西に位置する同市古川町などは、飛騨の匠たちが長く住んでいた所だそうです。 **のちに土芳は「蕉翁句集」に「此両句、いづれに決したるか。」と書いています。ただ「住居の方」は「涼しさは柱にミゆる住ゐ哉」と掲載し、敢えて形を変えている感がありますから、土芳は 師の意見を支持しているのでしょう。 なお、写真は元禄五年五月に竣工なった新芭蕉庵の大岡敏昭氏による推定平面図(「清閑の暮らし」草思社から)です。 chatGPT斎 今日の一句   涼しさや 夏の風呂敷 冷蔵庫 Bing亭   今日の一句   涼しさは 住まいにありて 夏忘れ

芭蕉 五月雨は滝降りうづむみかさ哉 6月14日(旧暦 四月二十六日)水曜日

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五月雨は滝降りうづむみかさ哉 芭蕉 曽良の旅日記に「二十七日 曇 芹沢ノ滝ヘ行」とあります。元禄二年四月二十七日(1689年6月14日)のことです。この時の句と江戸時代末にかけて活躍した須賀川出身の女流俳人多代女は推測しています。 俳諧書留に「須か川の駅より東二里ばかりに、石河の滝といふあるいよし。行て見ん事をおもひ催し侍れば、此比の雨にみかさ増りて、川を越す事かなはずといゝて止ければ/五月雨は滝降りうづむみかさ哉 翁/案内せんといはれし等雲と云人のかたへかきてやられし。」 とあり、句の前書としても残されましたので、通常掲句は、阿武隈川の乙字ケ滝(石河の滝)を詠んだものとされ、現在同地に句碑も建っています。ただ、この書留の文章から掲句は石河の滝に行って詠んだのではないことは明らかで、多代女は芹沢ノ滝を詠んだものと考えました。たしかに二十七日の天候は雨の合間の曇で、「五月雨は」と詠んでいるところに違和感があるかもしれませんが、じつは芹沢ノ滝のあるところの地名が「五月雨」といいました。芭蕉はそれが面白いと思ったのではないでしょうか。 chatGPT斎 今日の一句   五月雨の 一滴ずつが 猫の夢 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2023年06月」の「六月十一 日」欄からの引用です。 本 流 のもんどりうつて 梅雨 の 滝 黒坂紫陽子 普段でも水量豊富な滝だが、梅雨のため一層激しい。勢いよく滝口を飛び出した水が、もんどりうって落ちてくる。 「黒坂紫陽子集」 自註現代俳句シリーズ一一( 一〇)

蕪村 牡丹散て打ちかさなりぬ二三片 6月13日(旧暦 四月二十五日)火曜日

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牡丹散(ちり)て打ちかさなりぬ二三片 蕪村 明和六年五月十日(1769年6月13日)の詠です。同日詠に、 短夜の夜の間に咲るぼたん哉  閻王の口や牡丹を吐んとす*  などがあります。 「散て」を「チッテと読む方が句に勁(つよ)さも出、切字も利いて好もしい」(安藤次男)という意見もありますが、安永九年(1780年)七月几董宛書簡に上五を「ぼたんちりて」と蕪村自身書いていることもあってか、通常「ちりて」と読むようです。 *この句の 前書に「波翻舌本吐紅蓮」とあります。これは白居易の「遊悟真寺詩」の中の一節「 誦此蓮花偈,數滿百億千。 身壞口不壞, 舌根如紅蓮 。 顱骨今不見,石函尚存焉。 粉壁有吳畫,筆彩依舊鮮。」(「 この蓮華の偈を何十億も唱えた。 身は朽ちても口は朽ちず、舌根は赤い蓮のようだ。 頭蓋骨は今は見えないが、石の箱にはまだ残っている。 白い壁には吳の絵があり、筆の色はいまだに鮮やかだ。」Bing亭訳)に拠っていますが、この句の牡丹は本詩句からの絵画的イメージが強く直接的で、菩薩の蓮華ならぬ 閻魔さんは 紅蓮の牡丹を吐くと言い換えたおかしみと共に映像的にはなるほど強烈ですが、5月27日のような気宇壮大な「気」まで至ってないように思います。 閻魔は「蓮華偈頌」はもちろん南無妙法蓮華経といったお題目も唱えるとは思えませんが、牡丹といわれてやっぱりおかしかったんでしょうね。京の人なら、称名を唱え「南無阿弥陀仏」六体の仏が口から吐く 六波羅蜜寺の 空也像を思い浮かべたかもしれません。 Bing亭 今日の一句   散り行くは 牡丹の花か 夢の跡 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年05月」の「五月二十六 日」欄からの引用です。 なまなまと 生 きてしありし 牡 丹 かな 上田五千石 牡丹は花の王ともいわれている。在りし日のなまめかしい牡丹を思い、深い眼差しで対座する師の姿がある。「かな」の詠嘆は牡丹の気品、華麗さを包みこんで、「今を美し」とする五千石先生ならではの美意識へと誘われる。六十二歳の作。( 山下桂子)   「上田五千石集」 脚註名句シリーズ二( 一五)

蕪村 蕎麦あしき京をかくして穂麦哉 6月12日(旧暦 四月二十四日)月曜日

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蕎麦あしき京をかくして穂麦哉 蕪村 「洛東のばせを庵にて目前のけしきを申出侍る」と前書があります。 蕪村は、安永五年四月、道立や几董らと京一乗寺の金福寺に芭蕉庵を再興しました。掲句はその落成の日、二十六日(1776年6月12日)の吟です。掲句のほかに、「洛東芭蕉庵落成日  耳目肺腸(じもくはいちょう)こゝに玉巻ばせを庵* 」の句が残されています。 許六の「本朝文選」に、「饂飩を好(すく)人あり。其子は蕎麦切を好めり。蕎ずきはうどんを謗り、饂飩方はそばきりをにくめり。日夜朝暮此論やまず。むかしより、蕎とも麦とも、蕎はそば好、麦は麦ずき。」(許六「蕎麦ノ論」)、「先師翁いへる事あり。『蕎麦切・誹諧は都の土地に応ぜず』とて。」(雲鈴「蕎麦切ノ頌」)とあり、掲句はこのことを引いています。なお、雲鈴は支考の弟子です。 *司馬光の「独楽園記」の「耳目肺腸、巻テ己ガ有と為ス」、すべて巻き収めて、見聞きしたり思い考えたりすることに捉われるず、心広く独り楽しむことだそうです。季語は「玉巻く芭蕉」で初夏。 Bing亭 今日の一句   麦の穂に 蕎麦の花咲く 夏の風

其角 花あやめ幟もかをるあらしかな 6月11日(旧暦 四月二十三日)日曜日 腐草為螢(ふそうほたるとなる)

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花あやめ幟(のぼり)もかをるあらしかな 其角    元禄三年五月五日(1690年6月11日)江戸での詠。子を思う其角の心が通じ、端午の節句には五月雨も心したようですが、風がきつかったみたいです。 同日に嵐雪の  樗(あふち)佩(おび)て*わざとめかしや芝肴  の句が掲載されていますので、其角は子供そっちのけで、嵐雪らと日本橋か芝浜あたりで新鮮な江戸前の海老や魚に舌鼓を打っていたのでしょう。 *端午の節句に樗(栴檀)の葉を腰に帯びて悪疫を払うという古俗。菖蒲を頭に付けたり屋根に挿したりするのと同様の風習。 chatGPT斎 今日の一句   あやめ咲く ネオンの街が 瞬く夜 今日は、七十二候「 腐草為螢」です。 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年05月」の「五月二十九 日」欄からの引用です。 地より湧き地に還る水花菖蒲 鍵和田秞子 この句は確か京王百花苑の花菖蒲だったと思う。もっともどこの菖蒲苑でも大体こんこんと水が湧き、苑をうるおしているが。 「 鍵和田秞子集」 自註現代俳句シリーズ五( 一一)

其角 競馬埒に入身のいさみ哉 6月10日(旧暦 四月二十二日)土曜日

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競馬(くらべうま)埒(らち)に入(いる)身のいさみ哉  其角 「午の年、午の月、むまの日、午の時うけ*に入」と前書。元禄三年(庚午)五月(壬午)四日(甲午)(1690年6月10日)の正午ということになります。競馬会(くらべうまえ)は夏の季語です。 同日同じ前書で百里**が、  有卦に入笑いの皺ぞ酒による  と詠んでいます。「御当代記三に、この日「綱吉公有卦に御入被遊候に付、於御城御祝有」とあるそうです。  *有卦(うけ)とは、ウィキペディアによると「 陰陽道 において、人の生年の 干支 を吉凶に当てはめ、それぞれを有卦、無卦と呼ぶ。有卦に入ると、七年間は幸運な時期が続き、その後、五年間は不運となるといわれる。」綱吉の治世後期は確かに大事件や天災地変が相次ぎました。赤穂浪士の討ち入りは元禄十五年(1702年)ですから12年後になり、これ以降元禄十六年の元禄地震、その翌年宝永元年、三年等の浅間山噴火、宝永四年の宝永地震と富士山噴京都大火など続きますので、綱吉の有卦は七年より長かったようです。 **高野百里。同じ蕉門で嵐雪の弟子。 chatGPT斎 今日の一句   競馬 馬たちが笑う 走る人 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年05月」の「五月三 日」欄からの引用です。 尻の向き正されどほし祭馬 阿部子峡 米沢、上杉祭の武者行列、あまりの人出に馬も落ち着かない。 「 阿部子峡集」 自註現代俳句シリーズ九( 一二)

芭蕉 五月雨の空吹き落せ大井川 6月9日(旧暦 四月二十一日)金曜日

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  五月雨の空吹き落せ大井川 芭蕉  「はこねまで御大儀忝く、(略) 十五日嶋田へ雨に降られながら着き申し候。(略)其夜雨風、大井十六日渡り留り申し候」と十六日曾良に書き送った芭蕉でしたが、「五月の雨風しきりに落ち、大井川水出で侍りければ島田にとどめられて、如舟、如竹などといふ人のもとにありて」と前書して、元禄七年五月十七日(1694年6月9日)島田宿如舟宅で詠んだ一句。同日吟として、「駿河の国に入て  駿河路や花橘も茶の匂ひ 」の挨拶句が残されています。 曽良に箱根まで送られた芭蕉は、雨の中十五日に島田に到着しましたが、大雨のため翌日から結局十八日まで渡りが止まり、足止めされます。 Bing亭 今日の一句   五月雨の  滝轟々と 白き泡

其角 ものゝふの幟甲や庫の内 6月8日(旧暦 四月二十日)木曜日

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ものゝふの幟甲(のぼりかぶと)や庫の内 其角 昨日に続き端午の節句前の其角の句で、元禄三年五月二日(1690年5月2日)江戸での詠です。「かぶと取出すをみて」と前書があります。本句も亡母四回忌のあたり詠まれた「花摘」にあります。 貞享四年(1687年)其角は母を亡くし、「四月八日母のみまかりけるに  身にとりて衣がへうき卯月哉 」と詠み、この年の端午の節句には、「端午三七日(みなぬか)*にあへりければ」と前書して、 我嘆(わがなげき)かぶとうらやむわらべかな  と詠んでいます。 見かけによらず其角二十八歳、子煩悩のようです。 Bing亭 今日の一句   竜舟競う 五月の川面 鼓動に合わせ *日数から言えば四七日のはずなのですが、「四」を嫌い「見ぬ」に通ずる「三」とあえてしたのか作者の意図は不明です。

其角 さみだれの名も心せよ節句前 6月7日(旧暦 四月十九日)水曜日

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さみだれの名も心せよ節句前 其角 元禄三年五月一日(1690年6月7日)江戸での吟。「花摘」に「五月朔日 壬二集/さみだれとさ月きぬれば/名をかへていかに/ひまなき雨とゝのへば」として、掲句が掲載されています。「壬二集」は藤原家隆の私歌集です。ただ、同集には末句は「雨の景色ぞ」となっているそうです。 今は、こどもの日は晴れ上がった青空にこいのぼりのイメージがありますが、旧暦ではちょうど梅雨時ですから違ったんですね… Bing亭 今日の一句   五月雨や 花の散るごと 恋も去る

芭蕉 石の香や夏草赤く露暑し 6月6日(旧暦 四月十八日)火曜日 芒種・蟷螂生(とうろうしょうず)

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石の香や夏草赤く露暑し 芭蕉  芭蕉は、おくのほそ道の途次、元禄二年四月十八日那須湯本を訪れ、和泉屋五左衛門に宿し、翌日十九日(1689年6月5日)に「湯泉大明神に詣で那須与一の宝物拝観後殺生石を」見学したときの吟です。曽良の旅日記に「 湯をむすぶ誓も同じ石清水 」と共に記載されており、掲句には「殺生石」と前書がつけられています。 おくのほそ道には「殺生石は温泉(いでゆ)の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。」とあるのみで、いずれの句も収録されませんでした。 今日は、二十四候の芒種、七十二候の蟷螂生です。 chatGPT斎 今日の一句   夏草や 風に揺れる 野の光

曽良 ふっと出て関より帰る五月雨 6月5日(旧暦 四月十七日)月曜日 

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ふっと出て関より帰る五月雨  曽良                    曽良は故郷に戻る芭蕉に付き添い小田原で同宿したあと、元禄七年五月十三日 (1694 年 6 月 5 日 ) 、「箱根まで送りて」と掲句を残しました。 ただ、曽良は「五月雨」と詠んでいますが、この時芭蕉は、「箱根の関を越えて  目にかかる時やことさら五月富士 」の句を残しました。「はこね雨難儀、下りも荷物を駕籠に付て乗申候。漸々三嶋に泊り候。三嶋新町ぬまづ屋九郎兵衛と申飛脚宿、能 ( よき ) やどとり申候。今迄の一番にて御座候。十五日嶋田へ雨に降られながら着申候。」と十六日に曽良に書き送っていますので、十四日は晴れたのでしょう。 三嶋宿を出ての吟だと思われます。  BIng 亭 今日の一句   五月雨に 濡れ帰る道 思い出す

曾良 木の間をのぞく短夜の雨 6月4日(旧暦 四月十六日)日曜日

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木の間をのぞく短夜の雨 曽良 昨日、十六日に長らく滞在していた黒羽を発った芭蕉と曽良は、浄法寺桃雪からの書状を携え高久(現在の那須町高久)の大名主角左衛門邸に泊まり、雨の為十七日も引き続き滞在しました。掲句はその日の詠と思われます。 曽良の旅日記俳諧書留に、「那須の篠原を訪ねてなほ殺生石を見んと急ぎ侍るほどに雨降り出でければまづこのところにとどまり候/ 落ちくるやたかくの宿の時鳥* 翁/ 木の間をのぞく短夜の雨 曾良」と、はじめて曽良自身の句が記録されています。しかし、「おくのほそ道」には収録されず、ここまでの旅で「剃捨て黒髪山に衣替」と「かさねとは八重撫子の名成べし」が曽良の句として記載されていますが、ほそ道執筆時の芭蕉の代作ではないかと疑問視されているところです。 元禄二年四月十七日(1689年6月4日)のことです。 Bing亭 今日の一句   短夜や 君と見る月 明けないで *芭蕉のこの句は、角左衛門への挨拶句ですので前日、到着した日の吟だと思います。 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年06月」の「六月二十日」欄からの引用です。 短夜や軒うつて雨衰へず 村田 脩 早暁、軒うつ雨音の意外に大きな響きに、明るさにもかかわらずまだ降り募る雨を感じていた。 「 村田 脩集」 自註現代俳句シリーズ三( 三五)

芭蕉 麦のほをちからにつかむわかれ哉 6月3日(旧暦 四月十五日)土曜日

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麦のほをちからにつかむわかれ哉 ばせを   「仲夏のころ江戸を出で侍りしに人々送りけるに申し侍りし」と前書があります。 元禄七年五月十一日(1694年6月3日)に、故郷に向けて旅立ちます。寿貞の子供で芭蕉と何らかの血縁関係があると目されている二郎兵衛が同行、品川まで人々に送られた際の留別吟です。老いて衰弱しつつあるなか、弟子と別れ、まだ子供のような二郎兵衛と旅立つ心許なさから、麦藁ならぬ穂でもつかんで力にというおかしみ。(品川あたりは麦畑だったんですねー)ただ、この句が効いたのか曽良が箱根まで付き添って行きます。 なお、掲句は真蹟懐紙に依りましたが「蕉翁句集」等では  麦の穂を便りにつかむ別れかな  の句形となっています。 chatGPT斎 今日の一句   麦の穂の 隠れた太陽 謎光る Bing亭*    今日の一句   わかれ道 君の背中の 秋の空    *今日からBing亭も参加してどちらがが一句披露します。

其角 から衣御影やかけて杜若 6月2日(旧暦 四月十四日)金曜日

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  から衣御影(ミえい)やかけて杜若 其角 元禄三年四月二十五日(1690年6月2日)の詠です。前書に「奉納」とあります。 其角は、亡母の4回忌に当たり墓「母の寺に詣で」宗祇の日次の発句に倣い、「追福の一夏百句を思い立ち」「いざ我心、朝夕の人のすくなき折々、聊ものにかきつく。一夏百句にみちたれば、花摘と名付侍る也。」と、四月八日より七月十九日までの句日記を残します。 掲句は、在原業平の「から衣きつつなれにしつましあればはるばる来ぬるたびをしぞ思ふ*」を踏まえています。「奉納」とあることから、この年に本所中之郷へ替地を給わった業平ゆかりの南蔵院への奉納句かもしれません。** *この歌は 「折句」といわれる言葉遊びがなされており、 五七五七七各句の頭字に「かきつはた」が折り込まれています。 **其角はこれまで貞享元年(1684)及び元禄元年(1688年)に京大阪などを旅していましたので、「筒井筒」の舞台の奈良櫟本の在原寺と業平神社(現在の在原神社)を訪れたかもしれません。業平神社の御祭神は在原業平です。掲句の「御影」はそのままでも業平の御影だと読めますが、其角が掲句を「折句」仕立てに詠んだとすれば、「かみか」となり「御影は『神か』いや、業平だ」と念を押してるとも読めます。無理筋かもしれませんが… chatGPT斎 今日の一句   杜若の 咲くたび消える 夢の面影

蕪村  ふたり寝の蚊帳もる月のせうと達 6月1日(旧暦 四月十三日)木曜日

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ふたり寝の蚊帳もる月のせうと達 蕪村  「 逢不逢恋(アヒテアハザルコヒ)」と前書。安永七年五月七日(1778年6月1日)の 金福寺写経社の句会での吟です。京一条寺の金福寺の芭蕉庵は、2年前 安永五年四月に蕪村一門によって再建されました。金福寺は清和天皇の貞観六年(864年)創建の古刹です。 「せうと」は「兄人(背人)」、男兄弟の事で、掲句は 「二条の后に忍びて参りけるを、世の聞えありければ、せうとたちのまもらせ給ひけるとぞ」とあります 伊勢物語第五段を踏まえています。「二条の后」とは、清和天皇の女御なり陽成天皇の母となった藤原高子(たかいこ)といわれており、第五段は高子入内前の業平とのエピソードを扱っています。高子の男兄弟は摂政になる基経や大納言国経らがいます。 物語では、「 通ひ路に、夜ごとに人をすゑて守らせければ、行けどもえ逢はで帰りけり。」で、業平は「 人しれぬ わが通ひ路の 関守は よひよひごとにうちも寝ななむ」という歌を詠んだことになっていますが、掲句ではどうだったのでしょう? 逢えずに二人寝た蚊帳の中に一人いるとも読めますし、「せうと達」が居眠りしてくれて二人で蚊帳の中にいるとも読めます。「せうと達」の面目を考えると後者の方が面白そうで、前書「 逢不逢恋」も生きてくるように思います。 chatGPT斎 今日の一句   蚊帳の中逆さまに宙に寝姿