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芭蕉 水の奥氷室尋ぬる柳哉 7月17日(旧暦 五月三十日)月曜日

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水の奥氷室尋ぬる柳哉 芭蕉 尾花沢の清風邸での「涼しさを」歌仙*(7月3日参照ください)に連座した新庄の豪商風流が、芭蕉を新庄に招きます。元禄二年六月一日(1689年7月17日)風流邸に到着、その日の三吟三ッ物の発句です。 風流亭 水の奥氷室尋ぬる柳哉 芭蕉 /  ひるがほかゝる橋のふせ芝 風流  /  風渡る的の変矢(それや)に鳩鳴て 曾良 何となく奇妙なやり取りです。「水の奥氷室」は最上川の奥新庄、そこで流れずに凍った氷が風流の事のように読めます。柳は風にそよぐしなやかな芭蕉です。曽良の「風」は新しい俳諧の風、「的の変矢」は風流の俳諧を指しているようです。「鳩」はホーホーと鳴きます… *風流は、六句目「 鵙のつれくる いろいろの鳥 」と清風と芭蕉一行を揶揄したような句を詠んでいます。そしてどういう訳か二句のみでこの歌仙を抜けています。 chatGPT斎 今日の一句   リビングの 柳枝と氷 響きあい

蕪村 雲のみね四沢の水の涸てより 7月16日(旧暦 五月二十九日)日曜日

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雲のみね四沢の水の涸てより 蕪村 安永三年六月八日(1774年7月16日)自笑会兼題「雲峰」による詠。 陶淵明の作品ではないとの説が古来からある「四時」「春水満四沢 夏雲多奇峰」に拠るといわれていますが、「四時」は、「春水」「夏雲」「秋月」「冬松」という四季の特徴的な景物を詠ったもので、掲句はすべての沢や湖の水が枯れて雲の峰となっているとの視点があり気宇壮大です。 同日の句に  曠野行身に近づくや雲の峰    なお、蕪村の壮大な句としまししては、  さくら咲いて宇宙遠し山の峡 (かい) があります。 Bing亭 今日の一句   雲の向こうに 星が 輝いている

芭蕉 さみだれをあつめて涼し最上川 7月15日(旧暦 五月二十八日)土曜日

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さみだれをあつめて涼し最上川 芭蕉 立石寺(山寺)の宿坊に一泊して、芭蕉は大石田のに戻り高野平右衛門(一栄)宅に落ち着きます。ただ、「其夜、労ニ依テ無俳。休ス。」と曽良旅日記にありますように、疲れて休むだけでした。舟問屋の一栄宅は最上川の河港のほとりにありました。 翌日、元禄二年五月二十九日(1689年7月15日)、掲句を発句に四吟歌仙を巻き始めましたが、どういう訳か一巡終えたところで歌仙を中断、芭蕉は連衆の一栄と川水の二人を誘い、お寺参りに出かけます。 御承知のように、掲句はのちに中七を「あつめて早し」と改められ、おくのほそ道の最上川を下った折の句として収録されます。実際は六月三日のことで五月ではなくなっていましたが… Bing亭 今日の一句   大河暴流 荒々とした 息吹よ

其角 丈山の渡らぬあとを涼み哉 7月14日(旧暦 五月二十七日)金曜日

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丈山の渡らぬあとを涼み哉 其角 「翁よりの文に、都の涼み過て、又どち風になりともまかせてなどゝ、聞へけるをとゝめて」と前書して「花摘」元禄三年六月九日(1690年7月14日)の条にあります。「どち風」は方向が定まらない風のこと。 石山の幻住庵にいた芭蕉は、六月初め京に出て十八日まで滞在します。この間の句に「四条の川原涼みとて、夕月夜のころより有明過ぐるころまで、川中に床を並べて夜すがら酒飲み、物食ひ遊ぶ。女は帯の結び目いかめしく、男は羽織長う着なして、法師・老人ともに交り、桶屋・鍛冶屋の弟子子まで、暇得顔に歌ひののしる。さすがに都の景色なるべし   川風や薄柿着たる夕涼み 」があります。この折のことを早速江戸の其角に知らせたものでしょう。「我はめし喰うおとこ」の芭蕉がこの賑やかな夕涼みを体験したことを面白がっての句です。仙人のごとく大原詩仙堂に隠棲する石川丈山が天皇お召しにもかかわらず渡らなかったという賀茂なお、其角宛のこの文は残されていませんが、再び幻住庵に戻ってからの金沢小春(おくのほそ道の際宿泊した宮竹屋喜左衛門の息)宛書簡(元禄三年六月二十日付)に、「残生いまだ漂泊やまず、湖水のほとりに夏をいとひ候。猶どち風に身をまかすべき哉と秋立比を待かけ候。云々」とあり、同様の文言が其角宛文にも記されていたのでしょう。 Bing亭 今日の一句   浴衣の舞妓 夜風に揺れる 髪飾 *丈山は、御水尾天皇からのお召を「渡らじなせみの小川の清ければ老ひの波そふ影もはずかし」と辞退して、その後も決して賀茂川を渡らなかったということを踏まえています。

芭蕉 山寺や石にしみつく蝉の声 7月13日(旧暦 五月二十六日)木曜日

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山寺や石にしみつく蝉の声   芭蕉 「立石寺」と前書して、曽良の「旅日記俳諧書留」にあります。十日間留まった尾花沢から皆に薦められ、芭蕉と曽良は山寺(立石寺)に向かいます。尾花沢より七里半ほどの距離で、途中の舘岡(今の山形県村山市楯岡)まで、清風の心遣いで馬で送られました。舘岡から山寺まで三里半、8時頃に尾花沢を出発した芭蕉は14時くらいに到着して、その日に山上・山下巡礼を済ませます。その時掲句が詠まれました。元禄二年五月二十七日(1689年7月13日)のことです。 閑かさや岩にしみ入る蝉の声  の原句です。蝉の種類についてはニイニイゼミが定説になっているようですが、わたしはヒグラシ*じゃないかと思っています。 この日、芭蕉はもう一句詠んでいます。同じく「俳諧書留」に「立石の道にて  まゆはきを俤にして紅ノ花 」とある句です。清風は紅や紅色染料となる紅花で財を成したといわれますが、冬雪が深い尾花沢周辺では紅花は栽培されず、少し南の村山地域が「最上紅花」の主な産地でした。ちょうど開花時期でしたので、芭蕉は山寺に向かう道すがら見かけたものでしょう。 紅花の色は主に黄で、紅色成分を抽出乾燥して固めたものを紅餅にして流通しました。「最上紅花」は上質で、金の10倍といわれるの程高価なブランド品でした。この「最上紅花」を一手に江戸や京・大坂へ供給していたのが、尾花沢の清風でした。なお、源氏物語の「末摘花」はこの紅花の別名です。 *夕方などに「カナカナカナ」とどこかの梢で鳴きはじめ、しばらくして「カナカナ」と別の梢から呼応するように鳴き声が聞こえ、そのうちあたり木々が唱和するかに大きくなり、やがてすうっと鳴き止んでしまうといった、波のような鳴き方をするヒグラシ。私は7月25日と芭蕉より十日あまり後になりますが山寺で聞きました。7月3日に紹介しました 貞享二年(1685年)江戸小石川での「涼しさの」百韻において、芭蕉は「ひぐらしの声絶るかたに月見窓」(第三十七句目)と、前句の「古梵」に付けて詠んでいます。 、Bing亭 今日の一句   なつ の夢はあやうし あさ蝉頻り

其角 鉾にのる人のきほひも都哉 7月12日(旧暦 五月二十五日)水曜日 蓮始華(はすはじめてはなさく)

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鉾にのる人のきほひも都哉 其角 「京なつかしく、祇園会をかたり出て」の前書があります。元禄三年六月七日(1690年7月12日)江戸での吟です。   祇園会の始まりを、京都八坂神社のHPでは、「「貞観十一(869)年、天下大疫の時、宝祚隆永、人民安全、疫病消除鎮護の為、卜部日良麻呂、勅を奉じ、六月七日、六十六本の矛を建て、長さ二丈許、同十四日洛中男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神泉苑に送り、もって祭る。是祇園御霊会と号す。爾来毎歳六月七日、十四日、恒例と為す。」と「祇園本縁雑実記」(寛文十年(1670)以降成立)に伝えるとあります。 今日は、七十二候の蓮始華です。 chatGPT斎 今日の一句    祇園会の 騎士の剣に 鯉躍る 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年07月」の「七月十八日」欄からの引用です。 鉾の稚児雨の袂を重ねけり 髙田正子 両手の会祇園祭吟行二年目。巡行の日までに梅雨が明けず、しかも朝から大雨。〈 雨祓ひ長刀鉾の動き出す〉。濡れるのも厭わず歩き回った。 「 髙田正子集」 自註現代俳句シリーズ一二( 三三)

山頭火 青田いちめんの長い汽車が通る 7月11日(旧暦 五月二十四日)火曜日

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青田いちめんの長い汽車が通る 山頭火 「其中記」昭和8年(1933)7月11日の条に「天気明朗、心気も明朗である。/釣瓶縄をすげかへる、私自身が綯うた棕梠縄である、これで当分楽だ、それにしても水は尊い、井戸や清水に注連を張る人々の心を知れ。/百合を活ける、さんらんとしてかゞやいてゐる、野の百合のよそほひを見よ。/椹野川にそうて散歩した、月見草の花ざかりである、途上数句拾うた。」として、掲句のほか「 ふるさとちかく住みついて雲の峰  水をわたる高圧線の長い影  日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ 」などの句を採録しています。 小郡下郷矢足地区の其中庵から椹野 (ふしの) 川は東に2㎞程の距離にあり、川の手前で鉄道を越えます。SLやまぐち号が今も走る山口線で、そこを通る長い汽車を見たのだと思います。 また同日午後のことでしょうか、「蜩! ゆふべの窓からはじめて裏山の蜩を聞いた。」「或る日はしづかでうれしく、或る日はさみしくてかなしい、生きてゐてよかつたと思ふこともあれば、死んだつてかまはないと考へることもある」など書き連ね、「 昼寝の顔をのぞいては蜂が通りぬける  心中が見つかつたといふ山の蜩よ 」などの句を山頭火は詠んでいます。 chatGPT斎 今日の一句    無限鉄路 長い汽車が 時を刻む

一茶 ともかくもあなたまかせかかたつむり 7月10日(旧暦 五月二十三日)月曜日

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ともかくもあなたまかせかかたつむり 一茶 文化四年六月五日(1807年7月10日)の条に、「東橋の西手に大木所せき程にちらして、その一木に大紐つけて、老いたるもわかきも、思ひ思ひ着かざりて、右と左に並びける中に、講頭とおぼしき翁が麾(さい)を上るに随ひ、さまで大木も汗せず引行く。是、去寅三月回禄ニ亡びける本願寺御堂再興のれうとかや。(略) 今目前に見ること、あはれ此人々ハ信心肝に入て、みだ同体のさとりとやらんを致しゝなるか。げにげに仏在世のありさまにも覚へ侍る。」と掲句と「時鳥声をかけたか御材木」を記す。前年三月四日に焼失した浅草の東本願寺別院の再建の「木曳式」を目撃しての一句です。 木曳式は用材を敷地に引き入れる儀式で、その後地鎮の儀式を行い、用材を加工の上いよいよ建築工事に取り掛かる立柱の儀へと進みます。 3年後の文化七年六月十日(1810.7.11)の条に「けふ巳刻、東本願寺御柱立御規式なりとて、老若男女群集して、人に勝る桟敷とらんといどミあらそふ。漸々堂の片隅かりて踞る。柱三本に素木綿(しらゆふ)巻きつけて、三所ニおのおの青紅白の大幣神々しく、黄紅のかがミ餅かざりて、棟梁ハ烏帽子かり衣、其外素袍大紋きたる大工二十人ばかりも居並びつゝ、大祓いを唱へるぬ。彼宗派ハ雑行とて忌事なり。其源としてかゝる祭りするハ深き謂あるなるべし。」と書き残している。「彼宗派」とは浄土宗の事で、一茶は浄土真宗の熱心な信者です。 *写真は、伊勢神宮平成の御遷宮の「御木曳初式」(平成18年4月)の模様です。この時の「立柱祭」は平成24年3月に執り行われました。(神宮HPより) chatGPT斎 今日の一句    蝸牛の  殻径(みち)をゆく 地上の夢

其角 藻の花や絵に書きわけてさそふ水 7月9日(旧暦 五月二十二日)日曜日

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  藻の花や絵に書きわけてさそふ水 其角 「遊女小むらさきをかゝせて、讃このまれしに」との前書。元禄三年六月四日(1690年7月9日)のことです。 吉原の遊女小紫は其角のお気に入りだったようです。 小紫:小紫とは、明暦ころに名声を上げた江戸・京町の三浦屋抱えの名女郎のことかと推測される。 其角がつくった「吉原源氏五十四君」(貞享四年刊)にも、 「他の小女郎とは見えぬ風俗、さすがに名あるべし」と讃えられている人物のことだろう。(藤田真一「其角『花摘』の舞台」) chatGPT斎 今日の一句    満ちる夜に 藻の花咲きて 水底秘か 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2022年06月」の「六月七日」欄からの引用です。 藻 の 花 の 五分 の 魂 開 きけり 高橋悦男 日野市の高幡不動尊。境内の小さな池に白い花が浮かぶように咲いていた。折しも来合わせた同寺の川澄祐勝さんが藻の花だと教えてくれた。 「高橋悦男集」 自註現代俳句シリーズ一一( 三五)

虚子 夏の月皿の林檎の紅を失す 7月8日(旧暦 五月二十一日)土曜日

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夏の月皿の林檎の紅を失(う)す 虚子   大正七年(1918年)「七月八日。虚子庵小集。芥川我鬼、久米三汀等来り共に句作」と虚子句集「五百句」にあります。鎌倉の虚子邸だと思われます。 我鬼は芥川龍之介、三汀は久米正雄で、二人は大正5年に東京帝国大学を卒業した同級生です。芥川はすでに「羅生門」、「鼻」を発表して注目されていました。当時横須賀にあった海軍機関学校で英語を教えており、虚子と同じ鎌倉に住んでいました。虚子は珍しい夏の林檎で二人をもてなしたのでしょうか。 この頃ではないかと思われる芥川の句に、「久米正雄 微苦笑の小首かしげよ夏帽子」があります。 chatGPT斎 今日の一句    林檎空へ 月明かりの 無重力

蕪村 降替て日枝を廿チの化粧かな 7月7日(旧暦 五月二十日)金曜日 小暑・温風至(おんぷういたる)

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降替て日枝を廿(はた)チの化粧(けはひ)かな 蕪村 「慶子病後不二の夢見けるに申遣ス」と自選句集に前書がありますが、別に明和七年六月十五日(1770年7月7日)筆とする画賛*が残されています。 「慶 いせのくにゝありて、厲鬼に侵され、既世になき人の身にも入べかりけるを、稀有にして更生しければ、/ 降更て日枝を廿のけはひかな / 慶 芙蓉峰にのぼると夢て画賛をこふ。余例の等閑に過しけるが、今やその本復を賀して、又その日来のもとめを塞ぎ侍る。 蕪村 干時(ときに)庚寅六月望」 慶子は大阪の女形中村富十郎の俳号で、この年伊勢の古市の夏芝居に出演中発病したものの、回復して上京していました。「降替て」は富士山の雪が消えて新しい雪に降り替わるという意味で六月の季だそうです**。「日枝」は伊勢物語の富士の峰は比叡(日枝)山を二十かさねたほどの高さということから二十と富士に掛けて、富士の振り替わった雪のような美しい化粧に映える女形の若々しさを讃えています。 今日は、二十四節気の小暑、 七十二候 温風至です。 * 写真は「蕪村全集第六巻」(講談社1998)P389より。 **万葉集巻三の長歌「詠不盡山歌」の反歌に「ふじのねに ふりおくゆきは みなつきの もちにけぬれば そのよふりけり」 chatGPT斎 今日の一句    鏡台の 舞台化粧の 夢の影

其角  白雪に黒き若衆や富士詣  7月6日(旧暦 五月十九日)木曜日

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白雪に黒き若衆や富士詣  其角    元禄三年六月一日(1690年7月6日)の吟です。 江戸の頃、富士山の山開きは六月一日で、七月二十日まで山に登ることが許されていました。 駒込富士神社の説明書きに「旧五月末になると富士講の仲間の人々は、六月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。」とあります。駒込富士は特に町火消の信仰を集めたといい、纏が刻まれた火消組の石碑が多く残されています。今も駒込富士は火難除神符授與の社で、掲句は同社の「六月一日の神事か」と阿部喜三男は注しています。 chatGPT斎 今日の一句    夏の雪 降りそそぐ世界 幻の白 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年07月」の「七月一日」欄からの引用です。 頂 に 一礼 なして 山登 る 伊藤康江 「畦の会」年中行事のひとつ、富士の山開き。浅間神社でお祓いを受け、一行はバスで五合目へと目指した。 「伊藤康江集」 自註現代俳句シリーズ一一( 一八)

山頭火 かさりこそりと音させて鳴かぬ虫がきた  7月5日(旧暦 五月十八日)水曜日

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  かさりこそりと音させて鳴かぬ虫がきた  山頭火 「行乞記」昭和8年(1933年)7月5日の条に「朝風に病床を払ふ、そして洗濯、掃除、草取、等々。 街へ出かけて買物、それから入浴、どうやらいつもの私になつた。 外へ出ると、ことに田の草取を見ると、炎天だと思ふ。 筍もをはりらしい三本をぬく(うち一本は隣地のを失敬!)ぬいて、すぐむいで、ゆつくり味ふ。 帰宅途上、樹明君来庵、折よく御飯が出来たばかりで、しかも君の最大好物雲丹(これも大山さんのお土産の一つ)があつたので、夕飯をあげる、何とそのうまさうなたべぶり! 夜はおそくまで蚊帳の中で読書、極楽浄土はこゝにあり!」とあり、 これでをはりのけさの筍をぬく二本   ぬくめしに雲丹をぬり向きあつてゐる  この日の詠です。 山頭火は、二日の夕方に「焼酎と油揚餅と梅酢との中毒で私は七顛八倒」この日まで其中で臥せっていました。 chatGPT斎 今日の一句    虫と男 釣り合いなく 共に生き

清風 涼しさの凝りくだくるか水車 7月3日(旧暦 五月十六日)月曜日

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涼しさ*の凝りくだくるか水車 清風   尾花沢の豪商鈴木清風江戸小石川屋敷での百韻興行の発句。脇は芭蕉が「 青鷺草を見越す朝月 」と付け、蕉門の嵐雪、其角、素堂らが一座しました。貞享二年六月二日(1685年7月3日)のことです。 芭蕉は、4年後の元禄二年(1689)五月尾花沢に長期滞在することになります。「おくのほそ道」に「尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富めるものなれども志いやしからず。都にも折々かよひてさすがに旅の情をも知たれば、日比とどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。」と書いています。因みに、難所の山刀伐(なたぎり)峠を越え尾花沢の清風邸に到着したのは五月十七日、新暦7月3日昼過ぎのことでした。そして早速歌仙を巻くことになり、その発句が「 涼しさを我宿にしてねまる也 」です。この芭蕉の句も清風の掲句と同じく今日詠まれた一句ということになります**。 * 「出羽の芭蕉」(小柴健一著、出羽の豪商鈴木清風を顕彰する会発行)に、掲句清風の「涼しさ」は「延宝三年五月談林始祖宗因が東下し、芭蕉同席の百韻俳席の発句宗因『いと涼しき大徳也けり法の水』に由来。」とあり、掲句は単なる眼前句でなく、談林派清風が芭蕉の俳諧が談林を超え全国に広がりますかという問いかけだったとしています。延宝三年は西暦1675年。清風は延宝七年二九歳で俳諧宗匠として立机したそうです。 **従来五月中下旬興行とされている「歌仙『すずしさを』は、五月十七日に初折まで、翌十八日に満尾します。」と特定した「出羽の芭蕉」に拠ります。また同書に、尾花沢での芭蕉の「涼しさを」は、「発句清風『涼しさの凝りくだくるか水車』を引用した「すずしさを」です。」とあります。因みに貞享二年半夏生は五月晦日、元禄二年は五月十五日でしたので、二つの興行はどちらも半夏生の翌々日でした。芭蕉も清風もこのことを知っていたと思います。もしかしたら、芭蕉はその日に合わせて尾花沢入りをしたのかもしれません。 chatGPT斎 今日の一句   旱(ひでり) の 水車回る音 天に響くか

其角 顔あげよ清水を流す髪の長 7月4日(旧暦 五月十七日)火曜日

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顔あげよ清水を流す髪の長(たけ) 其角   「井にかみあらふ賤の女は、おもひもかけぬつや也けり」との前書。元禄三年五月二十八日(1690年7月4日)の詠です。  梅雨の晴れ間に長屋の井戸端で髷を解き、もろ肌ぬいで髷を解いて洗う。釣瓶で汲み上げた水を俯いたまま長い髪にザーとかけている。たぶん若いおかみさん… chatGPT斎 今日の一句    髪洗う しぶき散るや 女のゆめ 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2023年07月」の「七月九日」欄からの引用です。 高階 に 髪洗 ひをり 町 に 雨 岡本 眸 町も、家も、人も、すべてがひた濡れるような、雨の昼さがりの閑けさ。 「岡本 眸集」 自註現代俳句シリーズ二( 一〇)

其角 汗濃さよ衣の背ぬひのゆがみなり 7月2日(旧暦 五月十五日)日曜日 半夏生(はんげしょうず)

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汗濃さよ衣の背ぬひのゆがみなり  其角 元禄三年五月二十六日(1690年7月2日)吟です。 今日は、七十二候の「半夏生」、二十四節気「夏至」の末候です。半夏(カラスビシヤク*)が生え始めるころとなり、田植も終りで、本格的に暑くなっていきます。 *ここ二日ほどカラスビシャクを探して歩いていましたが、残念ながら見つけることができませんでした。「夏至」の初候である「乃東枯」の前に探していた乃東(ウツボグサ)を、昨日カラスビシャクの変わりに見つけました。気候の指標となっているようなポピュラーな植物などが、これほど目につかなくなっていることに、今更ながらですけど気づかされています。 chatGPT斎 今日の一句    背の汗の 流れる夏の 抱擁よ 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2023年07月」の「七月四日」欄からの引用です。 麻服 の 臀 ( いしき) は 皺 をたくはへぬ 大石悦子 少女の頃、汗かきの私に父は麻の服は着せられないなと言い、私は傷ついた。長じて、こんなに皺の寄るものなら、こちらからご免だと思った。 「大石悦子集」 自註現代俳句シリーズ一一( 五九)

芭蕉 蚤虱馬の尿する枕もと 7月1日(旧暦 五月十四日)土曜日 

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蚤虱馬の尿(しと)する枕もと 芭蕉   伊達政宗の最初の居城であった岩出山を小雨の中出発した芭蕉は、鳴子温泉を素通りして尿前関を怪しまれながらも通過、出羽街道中山越えで堺田に至ります。元禄二年五月十五日(1689年7月1日)のことで、その夜を詠んだものです。 「日既暮ければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。」と「おくのほそ道」にあります。曽良の日記に「宿(和泉庄や)」とあり、「封人の家」は堺田の庄屋有路長左衛門宅でした。この家は今も堺田に残っています。掲句は惨めな旅寝のイメージですが、庄屋の家ですからそんなことはなかったと思います。 芭蕉は、大雨のため次の日も「堺田ニ滞留」、快晴となった翌々日、大山を越えて尾花沢に向かうことになります。 Bing亭 今日の一句   馬の尿 熱き日にはじく 夏草

一茶 寝すがたの蠅追ふもけふがかぎり哉 6月30日(旧暦 五月十三日)金曜日

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寝すがたの蠅追ふもけふがかぎり哉 一茶 「廿日 熱ハ次第に盛にして、朝ハ淡粉(あはこ)一ツばかりたうべ給ひしが、昼比より御皃(かほ)のけしき青々と、目ハ半(なかば)ふさぎ給ひ、物ばしの給ひたきやう唇うごかし給ふばかり、いづる息引くいきに、痰ハころころと命を責メ、是さへ次第によわり給ひ、窓さし入る日影も未の歩ミ近(ちかづ)く比、人の俤も見ワき給ず、よろずたのミすくなきありさま也。(略) 只念仏申より外にたのミハなかりき。」として掲句が記されています。享和元年五月二十日(1801年6月30日)のことです。 この年三月、3年ぶりに帰郷していた一茶は、たまたま四月二十三日に倒れた父弥五左衛門の看病につき、臨終を看取ることになります。 「廿日の月ハ窓をてらし、隣々ハ寝しづまりてハ、八声の鶏も遠く聞ゆる比ハ、しきりに息の通ひも低くなり、(略) 天神地祇もあはれミもなく、夜ハほがらに明かゝり、卯ノ上刻といへる比、眠るごとく息たへさせ給ひけり。」 5-5-8の破調で、「の」、「も」で切れて、本来の切れ字「哉」で執着がありすぎる、一茶の実父を想う気持ちが強く出ている一句です。 chatGPT斎 今日の一句   父の影 蠅の音に 揺れている

芭蕉 夏草や兵どもが夢の跡 6月29日(旧暦 五月十二日)木曜日

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夏草や兵どもが夢の跡  芭蕉 曽良の旅日記に「十三日、天気明。巳ノ剋ヨリ平泉ヘ趣。(略) 高館、衣川、衣ノ関、中尊寺(別当案内)光堂(金色堂)、泉城、さくら川、秀衡屋敷等ヲ見ル。」と書いたのは、元禄二年五月十三日(1689年6月29日)のことです。  この日高館において、芭蕉は「偖(さて)も義臣すぐって此の城にこもり、功名一時の叢となる。『国破れて山河あり、城春にして草青みたり』と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落とし侍りぬ」と書いています。そして掲句を記しています。当日詠んだ句のように思われますがが、曽良の旅日記俳諧書留には記載がありませんので残念ながらそうではなく後日の作かもしれません。 掲句の初出は、元禄三年八月京都で出版された大坂の灯外編の「俳諧生駒堂」で、「平泉古戦城 路通が語りしを聞て  なつ草や兵どもの夢の跡 」となっています。元禄二年八月に路通は敦賀まで芭蕉を迎えに行き、大垣、伊勢迄同行していますから、その折にこの句を聞き知っていたのでしょう。それを編者の灯外あるいは灯外と親しいと思われる鬼貫に語ったものでしょう。鬼貫は奥州藤原氏の裔という伊丹の造り酒屋の生まれでした。 chatGPT斎 今日の一句   夏の夢 煌めく海と 星の語り

蕪村 鮓漬けて誰待つとしもなき身哉 6月28日(旧暦 五月十一日)水曜日

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鮓漬けて誰待つとしもなき身哉 蕪村 蕪村自身のことを詠んだ句のようにも思いますが、明和八年五月十六日(1771年6月28日)京都東寺奥の坊の会、兼題「鮓」による吟だそうです。 同日の句に、 桶をこれへと樹下に床几哉  木のもとに鮓の口切あるじかな  がありますので、もしかしたら蕪村の体験からきているのかもしれません*。 掲句に対して、弟子の召波**の「 鮓おして我は人待つ男かな 」があります。芭蕉に「 角が蓼蛍の句に和す  朝顔や我は飯食う男かな」と、弟子である其角の「 草の戸に我は蓼食ふ蛍哉」に対して詠んだ句があり、掲句と召波の句と似た関係になっています。師匠と門弟を逆転させた召波の洒落っ気でしょう。 *6年後となります安永六年(1777年)の句「 鮓おしてしばし淋しきこゝろかな 」などを掲載しています5月22日の項も参照ください。 ** 召波はこの年明和八年十二月に亡くなります。享年四十六歳、蕪村より12歳年下でした。 chatGPT斎 今日の一句      蛍光灯に 映る鮓の 寂しさよ

其角 沓作り藁打宵の蚊遣哉 6月27日(旧暦 五月十日)火曜日 菖蒲華(しょうぶはなさく)

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沓作り藁打宵の蚊遣哉 其角 「市の仮屋のいぶせきに」と前書があります。常設でない市の仮小屋が汚らしかったのでしょう。ふつう藁仕事は冬ですからこの時期の藁なら麦藁です。そこで麦藁の笠などを掛け並べた店先で、どういうわけか冬に履くような藁沓を蚊遣を焚いて作っていたのかもしれません。 其角はそれがおかしくて詠みましたと想像します。もしかしたら、飾り物にする沓だったのかもしれませんが … 「花摘」元禄三年五月二十一日 (1690 年 6 月 27 日 ) の条です。同日には「旅人や暁がたの蚊の行衛 ( 沾荷 ) 」と「蚊遣火や結分たる縄簾 ( 百里 ) 」の句も掲載されていますので、題詠の可能性もありますが、前書から嘱目の句と思う方が楽しめます。 きっと珍しい光景だったのでしょう。 今日は、七十二候の「菖蒲華」です。 chatGPT斎 今日の一句   沓 底の 蚊の遺伝子 足跡に

其角 涼しい歟寝て髣剃ル夢心 6月26日(旧暦 五月九日)月曜日

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涼しい歟(か)寝て髣(つむり)剃ル夢心 其角 「あはれ成哉や親の子をおもふ」との前書。  節句の「かぶとうらやむわらべ」の頭を、汗疹ができないよう剃ってやるのでしょう、子煩悩其角。 それとも、また大酒飲んでの夢なのでしょうか… 元禄三年五月二十日(1690年6月26日)のことです。 Bing亭 今日の一句   子を思う 心はいつも 春の空

其角 いつの間にお行ひとりぞ夏の月 6月25日(旧暦 五月八日)日曜日

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いつの間にお行ひとりぞ夏の月  其角 「日待*酔しらけて、みな迯(にげ)ちりたるあとにひとり灯をかゝげたる有がたさよ」と前書があります。「花摘」元禄三年五月十九日(1690年6月25日)の条です。 酔って**眠りこけた其角ひとり残して日が明けるの待たずにか、明けた途端に講の参加者は帰ってしまったのでしょう。其角は日蓮宗ですから、宵の口はお上人のお経や太鼓などもあってにぎやかだったのでしょう。 *「広辞苑」によりますと、日待は「前夜から潔斎して寝ずに日の出を待って拝むこと。一般に正・五・九月のの吉日を選んで行い、終夜酒宴を催す。」とあります。15、19、23、26日や甲子(きのえね)・庚申に日が多かったようです。  **芭蕉の其角宛書簡に、尊朝親王の作といわれる飲酒一枚起請文を冒頭に記して説明したうえ、「ちょと写し来候。貴丈つねづね大酒をせられ候故、此御文句を写して大酒御無用候。云々」と弟子の大酒を気を使いながらも戒めています。 Bing亭 今日の一句   黙然と 宴了えたり 月明かり 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年06月」の「六月二十六日」欄からの引用です。 地震 ( ない) に 出 て 短 夜 の 月真 っ 赤 なり 米田双葉子 今まで経験したことのない強い地震で戸外にとび出した。道路も揺れていた。ふと見上げると真赤な月が真上にあった。気味の悪い赤さであった。 「米田双葉子集」 脚註名句シリーズ六( 四七)

一茶 暁の夢をはめなむ時鳥 6月24日(旧暦 五月七日)土曜日

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  暁の夢をは(食)めなむ時鳥 一茶  文化七年五月二十三日(1810年6月24日)、長沼*の門弟掬斗(きくと)邸で二十二日に句会があり泊まっていた一茶が、掬斗から見た夢を告げられて詠んだ句です。 「屍らしきものに荒綱つけて、川ニ入る児有。『なじかハかゝ拙き遊びす』と問へば、『是ハ一茶が亡がらなれば、しかじかせよと源蔵の老婆がいひし也、我々のわざくれならず。』と答る時、暁の烏のかまびすしく、門の蚊柱きえぎえに、夢ハ迹なくさめけるとや。げにげに我たまたま故郷に帰りて、二夜とも伏さず、又漂泊の身となりて、野を枕、草を敷寝として、南北呻(さまよ)ふ物から、友垣の真心よりかゝる夢も見るなるべし。」と日記に書き残しています。 地元共同体の一員として地道に暮らしている義弟と相続について争う、30年以上漂泊している一茶は、故郷の人々から疎まれており、そのことを今更ながらに気づかされた掬斗の夢でした。一茶は「そぞろにおそろしく覚え侍る」として、時鳥にその夢を食わせてしまいたいと詠みました。 なお、遺産相続問題が決着するのはこの時からまだ数年かかることになります。。 *現在の長野市穂保あたりにあった「東脇往還・谷街道」の宿場町。掬斗はそこで代々医を業としていました 。 Bing亭 今日の一句   夢見るは 時鳥の声か 夏の恋

其角 蚊の声も今朝よわるべし明長屋 6月22日(旧暦 五月五日)木曜日

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蚊の声も今朝よわるべし明(あき)長屋  其角 元禄三年五月十六日(1690年6月22日)の詠。「同じく住家かたづくるとて」と前書があります。 これは、「花摘」の掲句の前に「十五日芦屋が餞(はなむけ)  蛍なら夜道教ん我想  かしこ」が掲載されてますので、前日の夜引っ越していった芦屋という人への餞別句ということでしょう。九日の条に「贈芦屋 うつり香や虫干もせじ単物(ひとえもの) かしこ」とあります。 なお、十六日は、其角は「しなびたる法師の梅干しけるをみて  梅いくつ閼伽の折敷に玉あられ」の句も詠んでいます。 Bing亭 今日の一句   蚊の声に 目覚めて見るや 二十日月

其角 羽ぬけ鳥鳴く音ばかりぞいらご崎 6月23日(旧暦 五月六日)金曜日

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羽ぬけ鳥鳴く音ばかりぞいらご崎  其角 「いらごの杜国例ならで、うせけるよしを越人より申きこえける。翁にもむつまじくて、鷹ひとつ見つけてうれしと迄に、たづね逢ける昔をおもひあはれみて」と前書して、其角は詠んでいます。元禄三年五月十七日(1690年6月23日)のことです。 名古屋の越人から杜国訃報が届いたのでしょう。芭蕉は、貞享四年(1687年)十一月伊良湖崎に蟄居中の杜国を越人と尋ね、貞享五年(元禄元年1688年)伊勢で落ち合い春から夏にかけて吉野から須磨・明石に至る「笈の小文」の旅を共にしていました。芭蕉最愛の弟子杜国*が、三月二十日に亡くなりました。芭蕉が知ったのは四月上旬だったようです。 *元禄三年正月十七日付万菊丸(杜国)宛書簡に、芭蕉は「いかにしてか便も無御座候。若は渡海の舩や打われけむ、病変やふりわきけんなど、方寸を砕而已(くだくのみに)候」と書き出し、末尾には「正・二月之間、伊賀へ御越待存候」と杜国へ想いを伝えています。  Bing亭 今日の一句   雲間より 鷹が現れて消えるかな

芭蕉 卯花も母なき宿ぞ冷じき 6月21日(旧暦 五月四日)水曜日 夏至・乃東枯(ないとうかるる)

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卯花も母なき宿ぞ冷(すさま)じき 芭蕉 其角の母が四月八日に亡くなり、その五七忌の追善三ッ物の発句です。貞享四年五月十二日(1687年6月21日)「五七の日追善会」、脇を其角、第三を嵐雪が付けています。 香消残る短夜の夢 (其角)   色いろの雲を見にけり月澄て (嵐雪)  二十六歳の其角は、「四月八日、母のみまかるけるに  身にとりて衣がえうき卯月哉 」、また「初七ノ夜いねかねたりしに   夢に来る母をかへすか郭公 」と偲んでいます。* 今日は、二十四節季の夏至、七十二候の乃東枯、ウツボグサ**が枯れ始める時候となりました。 * 其角は、亡母の4回忌に当たる元禄三年(1690年)「追福の一夏百句を思い立ち」「花摘と名付侍る」句日記を残すことになります。 **6月20日前後にウツボグサを探し歩いたのですが、見つけることができませんでした。写真は、7月1日岩手県の鳴子温泉の近くで見かけたものです。さすがに北国のせいでしょうか、この時期まだ花が残っていました。(7/4追記写真共) Bing亭 今日の一句   卯花咲く 母の手紙に 春の便り

一茶 古郷やよるも障るも茨の花 6月20日(旧暦 五月三日)火曜日

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古郷やよるも障るも茨の花 一茶   昨日、実家を通り越して一里先の野尻宿の門人魯童亭に泊まった一茶は、「十九。雨。辰刻、柏原ニ入。」文化七年五月十九日 (1810 年 6 月 20 日 ) 早朝のことでした。 「小丸山 * 墓参。村長**誰かれに逢ひて、我家に入る。きのふ心の占のごとく、素湯 ( さゆ ) 一つとも云ざれば、そこそこにして出る。」として、掲句。この日は柏原の旅籠「小升屋」に宿泊、翌二十日夕方には柏原を離れ、信濃の門弟宅を尋ね歩き、二十七日小諸泊、六月朔日には江戸にもどります。 「村長誰かれ」との書きぶりからは、名主 ** も一茶の味方ではないようで、実家も「そこそこにして出る」始末ですから、わざわざ江戸から出向いたにもかかわらず遺産分割履行の協議は進まなかったようです。*** * 明専寺の墓地、一茶の父弥五兵衛の墓があります。今回の帰郷は、享和元年 (1801 年 ) 五月二十一日に亡くなった亡父の墓参の方に目的があったのかもしれません。  ** 名主中村嘉左衛門。一茶は、安永五年十一月付の「取極一札之事」という、義弟と遺言通り折半するという内容で遺産分割について具体的に取り交わした証文を、村役人に提出しています。この証文は、この「村長誰かれ」自身の名主中村嘉左衛門が書いたと言われています。 ***「茨の花」と題した文が残されており、「柱ともたれしなぬし嘉左衛門といふ人に、あが仏の書一枚いつはりとられしものから、(略)たのむ木陰も雨降れば、一夜やどるよすがもなく、六十里来りて、墓より直に又六十里外の東へふみ出しぬ。」とあります。「取極一札」作成したとき名主に、 一茶は 亡父直筆の遺言書を預けてしまったらしいとのことです 。 Bing亭 今日の一句   茨道 古郷に帰る 故人の声

一茶 いかめしき夕立かゝる柳かな 6月19日(旧暦 五月二日)月曜日

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いかめしき夕立かゝる柳かな  一茶  文化七年五月十八日(1810年6月19日)、痛い足を引きずりながら一茶は「漸古郷見ゆる二十塚といふ山ニいたる。むつまじき仲ならば、とくとく行て昼から寝ばやと思へど、かねがねねじけたる家内の輩、例のむくつけき行迹見んも罪作る。又一里越して、野尻魯童亭ニ泊。」とし、掲句と、 時鳥我湖水ではなかりけり 茶のけぶり仏の小田も植わりけり  の三句を「七番日記」五月十八日の条に記しています。 一茶は、「足のいたミ常ならず」と言いながら故郷柏原宿を通り越し、一里先の野尻宿*まで脚を延ばしています。「又」と書いてますから毎度のことだったのかもしれません。継母や義弟と会うのが、よほど気が進まなかったとみえます。 *北国街道の野尻宿(現在の信濃町野尻)で、中山道の野尻宿とはまた別です。「時鳥我湖水」句の湖は野尻湖のことで、宿場町はその湖畔にありました。 chatGPT斎 今日の一句   野茨の 風に心を 痛めおり

蕪村 若竹や橋本の遊女ありやなしや 6月18日(旧暦 五月一日)日曜日

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若竹や橋本の遊女ありやなしや 蕪村  安永四年五月二十一日(1775年6月18日)几董庵句会において、西行と江口の遊女の故事をもとにして詠んだものです。橋本に多い竹林のその若竹の奥には、西行の江口の君のごとき風雅の遊女がいかにも住んでいそうだ、いやいないか…  橋本は、京街道の淀宿と枚方宿の間、石清水八幡宮の麓の淀(澱)川に面した遊里で、江口は同じ淀川の河口付近にあった遊里です。 蕪村は安永六年二月、斬新な俳詩体の「春風馬堤曲」と「澱河歌」を発表します。「殿河歌」は、五言絶句2首と和詩1首の3首に「老鶯児 春もやゝあなうぐいすよむかし声」の句で構成されています。蕪村六十二歳、この年の夏「 六十の手習恥る夏書かな 」夏安居中の写経の手習いのような句を残していますが、還暦を迎えた安永四年頃から何か新しい試みに挑戦していたのかもしれません。 「春風馬堤曲」と「澱河歌」ともに季は春ですが、蕪村は掲句と「澱河歌」を賛とする扇面画を描き残しています。掲句を「澱河歌 夏」として、「澱河歌」は春となっています。「澱河歌」の第三首目の和詩「君は水上の梅のごとし花水に/浮で去こと急カ也/妾は江頭の柳のごとし影水に/沈でしたがふことあたわず」とあります。この梅と柳の君には「 水にちりて花なくなりぬ岸の梅 」、柳の君は「 一軒の茶店の柳老にけり 」との詠があり、それらに対しでは「竹の君」はといった趣向なのかもしれません。 chatGPT斎 今日の一句: 若竹に あら縄むすぶ おんなのて 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2023年06月」の「六月六日」欄からの引用です。 若竹 の 節 の 二十重 (はたえ) の 上 ( え) は 知 らず 大竹きみ江 一ときわ育ちのよい若竹を見上げた。白い粉を噴く幹の肌にもふれてみた。節の輪を重ねた穂の先に空が透いて見えていた。 「大竹きみ江集」 自註現代俳句シリーズ三( 八)