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蕪村 羅に遮る蓮のにほひ哉 7月31日(旧暦 六月十四日)月曜日

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羅(うすもの)に遮(さへぎ)る蓮(れん)のにほひ哉   蕪村 「 座主の御子の、あなかまとてやをらたち入給ひける、いとたふとくて」 と前書があります。 安永五年六月十六日(1776年7月31日)夜半亭句会、兼題「蓮」による吟詠です。 戸を明て蚊帳に蓮(はちす)のあるじ哉 も同日吟ですが、掲句では「あるじ」が一気に偉くなって天台座主の法親王という設定で、庭前の蓮を題にして句会か歌仙を巻いているところへ、法親王が御簾をあげて「おや、おやかましいことどすなぁ」と闖入されたのです。そのご様子がなんとも尊くて、うすものに隔てられた蓮が匂ってくる。眼前のような仕立てです。「蓮」は「れん」と読ませ「簾」を掛けています。 自成庵謝幾 今日の一句   うすものの とんぼう一匹 無重力 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年07月」の「七月十三日」欄からの引用です。 うすものの息づくところ透くところ     大竹きみ江 ひもで腰をしめ、帯で形をととのえると急に息づかいが目に立つ女の夏姿。絽、紗、上布、明石、透きや、など今の若い人がご存知かどうか。 「 大竹きみ江集」 自註現代俳句シリーズ三( 八)

芭蕉 涼しさや海に入れたる最上川 7月30日(旧暦 六月十三日)日曜日

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涼しさや海に入たる最上川 芭蕉   鶴岡から舟で酒田に入った芭蕉は、「淵庵不玉(伊藤玄順のこと)と云医師(くすし)の許を宿とす。」翌、元禄二年六月十四日(1689年7月30日)、寺島彦助(安種亭令道、詮道)邸に招かれ、不玉らを連衆とした七吟俳諧興行*がありました。掲句はその折の発句で、脇は詮道の「月をゆりなす浪のうきみる(浮海松)」 「おくのほそ道」には、上五を直し「 暑き日を海にいれたり最上川 」が掲載されています。 *本興行については、曽良の旅日記俳諧書留にある七句のみ伝わり、「末略ス」と曽良は記しています残りの句は発見されていないようです。 今日は土用の丑の日です。 自成庵謝幾 今日の一句   冬銀河 船行くあとの 海に入る

芭蕉 ありとあるたとへにも似ず三日の月 7月29日(旧暦 六月十二日)土曜日

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ありとあるたとへにも似ず三日の月  芭蕉 「尾張円頓寺にて」との前書があります。笈の小文の旅を五月下旬いったん終え芭蕉は、京を経て、大津、岐阜等に滞在したあと、元禄元年七月三日(1688年7月29日)、尾張広井村八軒屋敷(現在の名古屋市西区那古野辺り)の長久山円頓寺に在って、この句を詠みました。円頓寺は名古屋駅にほど近い那古野に今も残りますが、当時より300mほど北に移転しているそうです。 掲句は推敲され、元禄二年(1689年)出版の荷兮編「阿羅野」巻之一、「月三十句」の内「二日  見る人もたしなき月の夕かな  荷兮」に続けて「三日  何事の見たてにも似ず三かの月  芭蕉」として収録されています。じつは「阿羅野」巻之五「初冬」にも、荷兮は別の二日月の句を掲載。「 こがらしに二日の月のふきちるか 」荷兮の自信作です。 どう「三日月」を詠むか、以前から芭蕉と名古屋の連衆との間には歌仙等でのこだわり、もしかして確執のようなものがあったのかもしれません。 貞享元年(1684年)野ざらしの旅で名古屋の荷兮らと巻いた歌仙のうち、杜国の発句「 つゝみかねて月とり落とす霽(しぐれ)かな 」歌仙の裏の月の座で、芭蕉は「 三ケ月の東は暗く鐘の声 」と「三日月」を詠みました。 貞享三年(1686年)秋、芭蕉が「 明行や二十七夜も三日の月 」と詠んでみせたことは、名古屋にも聞こえていたでしょう。貞享四年(1687年)10月江戸を出立して笈の小文の旅を始めた芭蕉が11月岐阜落梧亭で巻いた「凩の」三十句において、二十六句目に荷兮は「 女師走の月とちぎるか 」という奇矯な句を付けています。そして、同年12月熱田での如行、桐葉との三吟半歌仙「旅人と」の第十四句目に芭蕉は「 三ケ月細く節句しりけり 」と詠みました。 自成庵謝幾 今日の一句   三日月の 生きる意味問う 樹下の石

其角 焼鎌を背に暑し田艸取 7月28日(旧暦 六月十一日)金曜日 土潤溽暑(つちうるおいてじょくしょす)

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  焼鎌を背に暑し田艸取 其角 「憫農(のうをあはれむ)」と前書があります。「花摘」元禄三年六月二十二日(1690年7月28日)の条の句です。鎌を後ろ帯に差して、腰を曲げて水田の草取りをしている農民の背に、鉄の刃が夏の日差しに焼け付いたようにぎらついていたのでしょう。 其角には、三囲神社で雨乞い祈祷中農民と一緒になってよんだ  夕立や田を三囲の神ならば  もあり、其角の農民へのまなざしはやさしい。 今日は七十二候の土潤溽暑、土の湿り気が蒸発し蒸し暑い気候です。 自成庵謝幾 今日の一句   百年の 届かぬ想い 草を取る 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2020年06月」の「六月十日」欄からの引用です。 みちのくの 白(はく)一点 の 田 草 取 り   杉 良介 このころ東北出張が多かった。除草剤のおかげであの苦役から解放されたようだが、ときに草取りの姿もみた。 「杉 良介集」 自註現代俳句シリーズ九( 七)

其角 秋鳴スさゝら太鼓や夏神楽  7月27日(旧暦 六月十日)木曜日

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秋鳴(なら)スさゝら太鼓や夏神楽 其角   「市中の光陰は、ことさらにいそがはしきを」との前書があります。「花摘」元禄三年六月二十一日(1690年7月27日)の条の句です。 夏神楽は六月晦日の「夏越しの祓」の際に奉納され、本来秋を知らしめるささらや太鼓の音なのですが、早もう鳴っているよ夏神楽といったところでしょうか。穢れを清める茅の輪くぐりが6月の中頃から始められことが多いように、夏神楽もその頃から市中を練り歩き店先や門口でお祓い舞をしていたのでしょう。前書はそのような忙しさと共に、今年になってもう半年過ぎたのか、去年からもう一年たったのかという月日の経つ早さに改めて思いを致して。 なお、この年の六月晦日には、 夏祓御師(おし)の宿札たづねけり  と其角は詠んでいます。お祓いしてもらうために呼びに行ったのでしょうか。 自成庵謝幾 今日の一句   町に入る 音さまざまに 夏神楽 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年06月」の「六月二十九日」欄からの引用です。 肘 ぬれて 雨 の 形代流 しけり 本多静江 形代は男女別ある切り絵の人形。己が名を書き、患部などにこすって流す。茅の輪と共に夏祓の行事。鯖江では川に遠く、篝火に投じて焼く。 「本多静江集」 自註現代俳句シリーズ四( 四五)

芭蕉 めづらしや山をいで羽の初茄子 7月26日(旧暦 六月九日)水曜日

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めづらしや山をいで羽の初茄子 芭蕉 元禄二年六月十日(1689年7月26日)、芭蕉は、本坊でお昼い蕎麦やお酒をごちそうになり、14時ごろ鶴岡に向かいます。露丸同行で道々「小雨ス。ヌルゝニ不及。申ノ刻、鶴ヶ岡長山五良右衛門宅に至ル。粥ヲ望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル」(曽良「旅日記」)にあります発句が、掲句です。 所望した粥に、添えられていた茄子がきっと冷っとして美味しかったのでしょう。脇は、長山五良右衛門重行付けて「蝉に車の音添る井戸」です。冷たい井戸水で冷やしていた初茄子です。 自成庵謝幾 今日の一句   初茄子 すぐそこにある 古人の句

芭蕉 春を経し七ツの年の力石 7月25日(旧暦 六月八日)火曜日

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春を経し七ツの年の力石 芭蕉   7月20日に紹介しました「おくのほそ道」羽黒山での「有難(ありがた)や」歌仙は、月山登山を挟みながら詠み継がれ、元禄二年六月九日(1689年7月25日)、二折目(19句目)芭蕉の掲句から再開します。歌仙の平句ですから、季は前句「 的場のすゑに咲る山吹 釣雪 」を受けて春です。20句目は呂(露)丸のが「 汲ていただく醒ヶ井の水 」と付けています。 七つの時に持ち上げた力石が年経て境内などにある様子を詠んでいます。歌仙中断の間、芭蕉は湯殿山でたくさんの奉納された力石を見たのかもしれません。 同日の曽良の旅日記の条に「花ノ句ヲ進テ、俳、終。」とありますように、羽黒山別当代会覚が35句目「 盃のさかなに流す花の浪 」と詠み、いよいよ歌仙は満尾することとなります。揚句は「 幕うち揚るつばくらの舞 梨水 」、梨水は地元羽黒の俳人だそうです。 自成庵謝幾 今日の一句   少年の 軽き寝息や ハローウィン

其角 抱籠や妾かゝえてきのふけふ 7月24日(旧暦 六月七日)月曜日

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抱籠や妾かゝえてきのふけふ 其角 「花摘」元禄三年六月十八日(1690年7月24日)の条の句。 昨日今日、連日35℃を越える猛暑です。その中、妾が抱籠を抱えて…、もしかして、この暑いにもかかわらず、俺は妾抱えて…、なのかもしれません。 「抱籠」は、竹で編んだ夏の夜涼をとるための籠で、「竹婦人」とも呼ばれます。蕪村の句に、  褒居士(ほうこじ)はかたい親父よ竹婦人  天にあらば比翼の籠や竹婦人  があります。褒(龐)居士は唐時代の禅者で、娘と竹の籠などを売って暮らしていたそうです。 最近、chatGPT斎、Bing亭ともスランプの為、新たに自成庵謝幾(jhaiku)に登場してもらいます。 自成庵謝幾 今日の一句   せせらぎの いささか濡れし かたつむり 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年07月」の「七月二十八日」欄からの引用です。 くびれたるところがかたし竹婦人  小原啄葉 竹婦人は抱いても足をもたせても涼しい。ただ、くびれた編目のところが少しかたかった。 「 小原啄葉集」 自註現代俳句シリーズ・続篇一九

芭蕉 語れぬ湯殿にぬらす袂哉 7月23日(旧暦 六月六日)日曜日 大暑・桐始結花(きりはじめてはなをむすぶ)

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語れぬ湯殿にぬらす袂哉 芭蕉 月山山頂の「角兵衛小ヤ」に泊まった芭蕉と曽良が、じつは楽しみにしていたことがあったようです。しかし、「雲晴テ来光ナシ。夕ニハ東ニ、旦(あした)ニハ西ニ有由也。」と旅日記に残しているように、「ブロッケン現象」は、夕も朝も晴れてしまい見ることができませんでした。 (写真はPHOTOHITOサイトchancoさん撮影) 「臥して明るを待。日出て雲消れば、湯殿に下る。谷の傍に鍛冶小屋と云有。」この日、元禄二年六月七日(1689年7月23日)湯殿山神社本宮を参詣し、昼頃月山山頂に戻り、「及暮、南谷ニ帰。甚労ル。」と旅日記にあります。羽黒山から月山山頂往復約60km、高低差1900m、月山山頂から湯殿山神社本宮往復約8km、高低差700m。1泊2日ですから、驚くほどの健脚です。 この日、芭蕉は掲句を、曽良も、 銭踏て世を忘れけりゆどの道  と詠みました。曽良の句は、後に芭蕉によって  湯殿山銭ふむ道の泪かな  と直され「おくのほそ道」に収録されます。 今日は、二十四節気 大暑、七十二候 桐始結花 chatGPT斎 今日の一句   足裏の 大地の大暑 踏みしめる  

芭蕉 雲の峰幾つ崩レて月の山 7月22日(旧暦 六月五日)土曜日

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雲の峰幾つ崩レて月の山 芭蕉 「おくのほそ道」に、「八日、月山にのぼる。(略) 雲霧山気の中に、氷雪を踏みてのぼる事八里、更に日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶身こごえて頂上に臻(いた)れば、日没て月顕る。」とありますが、実際に月山に登ったのは元禄二年六月六日(1689年7月22日)のことでした。 山頂には月山神社本宮(月山権現)と参拝者の為の泊り小屋がいくつかありました。 この日曽良は、 三ケ月や雪にしらけし雲峰  と詠んでいます。芭蕉の  涼しさやほの三か月の羽黒山  の原句と思われる  涼風やほの三ケ月の羽黒山  も同日詠の可能性が高そうです。 chatGPT斎 今日の一句    大坊主 無我か迷路か 雲の峰

其角 切ラレたる夢は誠か蚤の跡 7月21日(旧暦 六月四日)金曜日

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切ラレたる夢は誠か蚤の跡 其角 「 怖(オソロシキ)夢を見て」と前書*があります。 去來曰、「其角は誠に作者にて侍る。わづかにのみの喰つきたる事、たれかかくは謂つくさん 。」先師曰「 しかり。かれは定家の卿也 。『さしてもなき事を、ことごとしくいひつらね侍る。』ときこへし評に似たり 。」(「去来抄」の「先師評」)と、驚いた去来に対して芭蕉が評したという其角の有名句です。 花摘の元禄三年六月十六日(1890年7月21日)の条での詠です。 *「五元集」での前書は、「いきげさにずてんどうとうちはなされたるがさめて後」とあります。「いきげさ」は「袈裟懸け」、「ずてんどう」は「ずってんどう」「ずでんどう」とも。激しく倒れるさま。 chatGPT斎 今日の一句   複眼の 夢映し出す 夏の虚実 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2022年07月」の「七月十四日」欄からの引用です。 暑き 夜 や 夢 見 み つつ 夢作 りつつ 相馬遷子 暑い夜の眠り、それは浅い眠りである。夢のつづきを自分で作りながら眠っている。半ば覚醒、半ば睡眠の状態である。一種の創作なのだが、目がさめると夢の筋は忘れてしまう。(堀口星眠) 「相馬遷子集」 脚註名句シリーズ一( 一〇)

芭蕉 有難や雪をかほらす風の音 7月20日(旧暦 六月三日)木曜日 土用入

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有難や雪をかほらす風の音 芭蕉 おくのほそ道に、「四日、本坊にをゐて俳諧興行。/  有難や雪をかほらす南谷 」とある句の元の句です。南谷は羽黒山別当寺の別院で、当時別当代会覚阿闍梨の住まいでした。 新庄を発った芭蕉は、本合海で風流紹介の船宿から最上川を下ります。いい天気でした。船番所のある古川の船宿にも風流の紹介状があり、出手形も新庄で用意してもらっていたのでスムーズに関所を越え、船を乗り継ぎ仙人堂や白糸の滝を右に見ながら清川に向かいました。しかし清川の鶴岡藩の番所では、紹介状なしでは「船ヨリアゲズ。一り半、雁川」まで行き上陸、16時ごろ羽黒山手向荒町の近藤左吉(露丸)宅に到着しました。 翌日、元禄二年六月四日(1689年7月20日)芭蕉は会覚に謁見の後、本坊において掲句を発句に八吟歌仙興行を始めました。脇は露丸、  住程人のむすぶ夏草  第三は曽良、 川船のつなに蛍を引立て   歌仙は、この日表六句にて中断、翌日に持ち越しました。 今日は夏の土用入です。因みに元禄二年の暦では六月二日が土用入でした。 chatGPT斎 今日の一句   雪渓の 熊の跡白し 永久   以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2022年06月」の「六月二十八日」欄からの引用です。 芭 蕉再 び 来 ずを 待 つかに 守宮 ( やもり) 老 ゆ 林 昌華 奥の細道の一部を遡行し、羽黒山を訪う。芭蕉が「有難や雪をかをらす南谷」と詠み、出羽三山巡礼の本拠となった南谷の遺跡においての作。 「林 昌華集」 自註現代俳句シリーズ四( 三七)

山頭火 てふてふひらひらいらかをこえた 7月19日(旧暦 六月二日)水曜日

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てふてふひらひらいらかをこえた 山頭火 「旅日記」 昭和11年(1936)7月19日の条に、 平泉 ここまで来しを水飲んで去る 、永平寺 てふてふひらひらいらかをこえた など多数の句が記されています。 山頭火は、この年3月の初め神戸を皮切りに関西、東海、東京、信濃寺、北陸道からおくのほそ道等を漂泊し、7月中旬大阪から竹原まで帰っていました。そして18日生野島に渡り一泊、19日夕方竹原に戻っています。 永平寺に参篭したのは7月4日から9日でしたので、掲句が詠まれたのはそれから19日までの間となりますが、どうも参篭中のではないように思います… 同じ日の条に、「 竹原 生野島」として /  萩とすすきとあをあをとして十分  /  すずしく風は萩の若葉をそよがせてそして  /  そよかぜの草の葉からてふてふうまれて出た  / などの句があり、このそよかぜの草の葉から生まれた「てふてふ」が永平寺の屋根を越えたのではないでしょうか。 chatGPT斎 今日の一句   蝶の脚 踏みしめる道 の悠然

芭蕉 風の香も南に近し最上川 7月18日(旧暦 六月一日)火曜日 鷹乃学習(たかすなわちがくしゅうす)

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風の香も南に近し最上川 芭蕉 風流亭の翌日、元禄二年六月二日(1689年7月18日)風流の本家である渋谷九郎兵衛宅(盛信亭*)に招かれて、どういう訳か風流の発句( 御尋ねに我宿せばし破れ蚊や )で七吟歌仙**を巻きます。この歌仙はあまりうまく運ばなかったようです。満尾後に仕切り直しかのように改めて芭蕉は、当主の息子である柳風と歌仙途中参加ながら連衆最多の六句を詠んだ木端とで、掲句を発句に三ツ物を巻きました。 風の香も南に近し最上川 芭蕉 /  小家の軒を洗ふ夕立 柳風  /  物もなく麓は霧に埋て 木端 *写真は新庄市の盛信亭跡の標柱です。道路の向こう側に見える森金物店あたりが風流亭跡です。 **脇句は芭蕉、 はじめてかほる風の薫物   曽良は四句目、 霧立かくす虹のもとすゑ  と付けています。 今日は七十二候 鷹乃学習。鷹の子が飛ぶ事を覚え巣立つ頃ですが、残念ながら鷹にはそう簡単にお目に掛かれません。 chatGPT斎 今日の一句   ふわり舞う 恋の行衛の 風の香よ

芭蕉 水の奥氷室尋ぬる柳哉 7月17日(旧暦 五月三十日)月曜日

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水の奥氷室尋ぬる柳哉 芭蕉 尾花沢の清風邸での「涼しさを」歌仙*(7月3日参照ください)に連座した新庄の豪商風流が、芭蕉を新庄に招きます。元禄二年六月一日(1689年7月17日)風流邸に到着、その日の三吟三ッ物の発句です。 風流亭 水の奥氷室尋ぬる柳哉 芭蕉 /  ひるがほかゝる橋のふせ芝 風流  /  風渡る的の変矢(それや)に鳩鳴て 曾良 何となく奇妙なやり取りです。「水の奥氷室」は最上川の奥新庄、そこで流れずに凍った氷が風流の事のように読めます。柳は風にそよぐしなやかな芭蕉です。曽良の「風」は新しい俳諧の風、「的の変矢」は風流の俳諧を指しているようです。「鳩」はホーホーと鳴きます… *風流は、六句目「 鵙のつれくる いろいろの鳥 」と清風と芭蕉一行を揶揄したような句を詠んでいます。そしてどういう訳か二句のみでこの歌仙を抜けています。 chatGPT斎 今日の一句   リビングの 柳枝と氷 響きあい

蕪村 雲のみね四沢の水の涸てより 7月16日(旧暦 五月二十九日)日曜日

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雲のみね四沢の水の涸てより 蕪村 安永三年六月八日(1774年7月16日)自笑会兼題「雲峰」による詠。 陶淵明の作品ではないとの説が古来からある「四時」「春水満四沢 夏雲多奇峰」に拠るといわれていますが、「四時」は、「春水」「夏雲」「秋月」「冬松」という四季の特徴的な景物を詠ったもので、掲句はすべての沢や湖の水が枯れて雲の峰となっているとの視点があり気宇壮大です。 同日の句に  曠野行身に近づくや雲の峰    なお、蕪村の壮大な句としまししては、  さくら咲いて宇宙遠し山の峡 (かい) があります。 Bing亭 今日の一句   雲の向こうに 星が 輝いている

芭蕉 さみだれをあつめて涼し最上川 7月15日(旧暦 五月二十八日)土曜日

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さみだれをあつめて涼し最上川 芭蕉 立石寺(山寺)の宿坊に一泊して、芭蕉は大石田のに戻り高野平右衛門(一栄)宅に落ち着きます。ただ、「其夜、労ニ依テ無俳。休ス。」と曽良旅日記にありますように、疲れて休むだけでした。舟問屋の一栄宅は最上川の河港のほとりにありました。 翌日、元禄二年五月二十九日(1689年7月15日)、掲句を発句に四吟歌仙を巻き始めましたが、どういう訳か一巡終えたところで歌仙を中断、芭蕉は連衆の一栄と川水の二人を誘い、お寺参りに出かけます。 御承知のように、掲句はのちに中七を「あつめて早し」と改められ、おくのほそ道の最上川を下った折の句として収録されます。実際は六月三日のことで五月ではなくなっていましたが… Bing亭 今日の一句   大河暴流 荒々とした 息吹よ

其角 丈山の渡らぬあとを涼み哉 7月14日(旧暦 五月二十七日)金曜日

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丈山の渡らぬあとを涼み哉 其角 「翁よりの文に、都の涼み過て、又どち風になりともまかせてなどゝ、聞へけるをとゝめて」と前書して「花摘」元禄三年六月九日(1690年7月14日)の条にあります。「どち風」は方向が定まらない風のこと。 石山の幻住庵にいた芭蕉は、六月初め京に出て十八日まで滞在します。この間の句に「四条の川原涼みとて、夕月夜のころより有明過ぐるころまで、川中に床を並べて夜すがら酒飲み、物食ひ遊ぶ。女は帯の結び目いかめしく、男は羽織長う着なして、法師・老人ともに交り、桶屋・鍛冶屋の弟子子まで、暇得顔に歌ひののしる。さすがに都の景色なるべし   川風や薄柿着たる夕涼み 」があります。この折のことを早速江戸の其角に知らせたものでしょう。「我はめし喰うおとこ」の芭蕉がこの賑やかな夕涼みを体験したことを面白がっての句です。仙人のごとく大原詩仙堂に隠棲する石川丈山が天皇お召しにもかかわらず渡らなかったという賀茂なお、其角宛のこの文は残されていませんが、再び幻住庵に戻ってからの金沢小春(おくのほそ道の際宿泊した宮竹屋喜左衛門の息)宛書簡(元禄三年六月二十日付)に、「残生いまだ漂泊やまず、湖水のほとりに夏をいとひ候。猶どち風に身をまかすべき哉と秋立比を待かけ候。云々」とあり、同様の文言が其角宛文にも記されていたのでしょう。 Bing亭 今日の一句   浴衣の舞妓 夜風に揺れる 髪飾 *丈山は、御水尾天皇からのお召を「渡らじなせみの小川の清ければ老ひの波そふ影もはずかし」と辞退して、その後も決して賀茂川を渡らなかったということを踏まえています。

芭蕉 山寺や石にしみつく蝉の声 7月13日(旧暦 五月二十六日)木曜日

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山寺や石にしみつく蝉の声   芭蕉 「立石寺」と前書して、曽良の「旅日記俳諧書留」にあります。十日間留まった尾花沢から皆に薦められ、芭蕉と曽良は山寺(立石寺)に向かいます。尾花沢より七里半ほどの距離で、途中の舘岡(今の山形県村山市楯岡)まで、清風の心遣いで馬で送られました。舘岡から山寺まで三里半、8時頃に尾花沢を出発した芭蕉は14時くらいに到着して、その日に山上・山下巡礼を済ませます。その時掲句が詠まれました。元禄二年五月二十七日(1689年7月13日)のことです。 閑かさや岩にしみ入る蝉の声  の原句です。蝉の種類についてはニイニイゼミが定説になっているようですが、わたしはヒグラシ*じゃないかと思っています。 この日、芭蕉はもう一句詠んでいます。同じく「俳諧書留」に「立石の道にて  まゆはきを俤にして紅ノ花 」とある句です。清風は紅や紅色染料となる紅花で財を成したといわれますが、冬雪が深い尾花沢周辺では紅花は栽培されず、少し南の村山地域が「最上紅花」の主な産地でした。ちょうど開花時期でしたので、芭蕉は山寺に向かう道すがら見かけたものでしょう。 紅花の色は主に黄で、紅色成分を抽出乾燥して固めたものを紅餅にして流通しました。「最上紅花」は上質で、金の10倍といわれるの程高価なブランド品でした。この「最上紅花」を一手に江戸や京・大坂へ供給していたのが、尾花沢の清風でした。なお、源氏物語の「末摘花」はこの紅花の別名です。 *夕方などに「カナカナカナ」とどこかの梢で鳴きはじめ、しばらくして「カナカナ」と別の梢から呼応するように鳴き声が聞こえ、そのうちあたり木々が唱和するかに大きくなり、やがてすうっと鳴き止んでしまうといった、波のような鳴き方をするヒグラシ。私は7月25日と芭蕉より十日あまり後になりますが山寺で聞きました。7月3日に紹介しました 貞享二年(1685年)江戸小石川での「涼しさの」百韻において、芭蕉は「ひぐらしの声絶るかたに月見窓」(第三十七句目)と、前句の「古梵」に付けて詠んでいます。 、Bing亭 今日の一句   なつ の夢はあやうし あさ蝉頻り

其角 鉾にのる人のきほひも都哉 7月12日(旧暦 五月二十五日)水曜日 蓮始華(はすはじめてはなさく)

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鉾にのる人のきほひも都哉 其角 「京なつかしく、祇園会をかたり出て」の前書があります。元禄三年六月七日(1690年7月12日)江戸での吟です。   祇園会の始まりを、京都八坂神社のHPでは、「「貞観十一(869)年、天下大疫の時、宝祚隆永、人民安全、疫病消除鎮護の為、卜部日良麻呂、勅を奉じ、六月七日、六十六本の矛を建て、長さ二丈許、同十四日洛中男児及び郊外の百姓を率いて神輿を神泉苑に送り、もって祭る。是祇園御霊会と号す。爾来毎歳六月七日、十四日、恒例と為す。」と「祇園本縁雑実記」(寛文十年(1670)以降成立)に伝えるとあります。 今日は、七十二候の蓮始華です。 chatGPT斎 今日の一句    祇園会の 騎士の剣に 鯉躍る 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2019年07月」の「七月十八日」欄からの引用です。 鉾の稚児雨の袂を重ねけり 髙田正子 両手の会祇園祭吟行二年目。巡行の日までに梅雨が明けず、しかも朝から大雨。〈 雨祓ひ長刀鉾の動き出す〉。濡れるのも厭わず歩き回った。 「 髙田正子集」 自註現代俳句シリーズ一二( 三三)

山頭火 青田いちめんの長い汽車が通る 7月11日(旧暦 五月二十四日)火曜日

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青田いちめんの長い汽車が通る 山頭火 「其中記」昭和8年(1933)7月11日の条に「天気明朗、心気も明朗である。/釣瓶縄をすげかへる、私自身が綯うた棕梠縄である、これで当分楽だ、それにしても水は尊い、井戸や清水に注連を張る人々の心を知れ。/百合を活ける、さんらんとしてかゞやいてゐる、野の百合のよそほひを見よ。/椹野川にそうて散歩した、月見草の花ざかりである、途上数句拾うた。」として、掲句のほか「 ふるさとちかく住みついて雲の峰  水をわたる高圧線の長い影  日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ 」などの句を採録しています。 小郡下郷矢足地区の其中庵から椹野 (ふしの) 川は東に2㎞程の距離にあり、川の手前で鉄道を越えます。SLやまぐち号が今も走る山口線で、そこを通る長い汽車を見たのだと思います。 また同日午後のことでしょうか、「蜩! ゆふべの窓からはじめて裏山の蜩を聞いた。」「或る日はしづかでうれしく、或る日はさみしくてかなしい、生きてゐてよかつたと思ふこともあれば、死んだつてかまはないと考へることもある」など書き連ね、「 昼寝の顔をのぞいては蜂が通りぬける  心中が見つかつたといふ山の蜩よ 」などの句を山頭火は詠んでいます。 chatGPT斎 今日の一句    無限鉄路 長い汽車が 時を刻む

一茶 ともかくもあなたまかせかかたつむり 7月10日(旧暦 五月二十三日)月曜日

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ともかくもあなたまかせかかたつむり 一茶 文化四年六月五日(1807年7月10日)の条に、「東橋の西手に大木所せき程にちらして、その一木に大紐つけて、老いたるもわかきも、思ひ思ひ着かざりて、右と左に並びける中に、講頭とおぼしき翁が麾(さい)を上るに随ひ、さまで大木も汗せず引行く。是、去寅三月回禄ニ亡びける本願寺御堂再興のれうとかや。(略) 今目前に見ること、あはれ此人々ハ信心肝に入て、みだ同体のさとりとやらんを致しゝなるか。げにげに仏在世のありさまにも覚へ侍る。」と掲句と「時鳥声をかけたか御材木」を記す。前年三月四日に焼失した浅草の東本願寺別院の再建の「木曳式」を目撃しての一句です。 木曳式は用材を敷地に引き入れる儀式で、その後地鎮の儀式を行い、用材を加工の上いよいよ建築工事に取り掛かる立柱の儀へと進みます。 3年後の文化七年六月十日(1810.7.11)の条に「けふ巳刻、東本願寺御柱立御規式なりとて、老若男女群集して、人に勝る桟敷とらんといどミあらそふ。漸々堂の片隅かりて踞る。柱三本に素木綿(しらゆふ)巻きつけて、三所ニおのおの青紅白の大幣神々しく、黄紅のかがミ餅かざりて、棟梁ハ烏帽子かり衣、其外素袍大紋きたる大工二十人ばかりも居並びつゝ、大祓いを唱へるぬ。彼宗派ハ雑行とて忌事なり。其源としてかゝる祭りするハ深き謂あるなるべし。」と書き残している。「彼宗派」とは浄土宗の事で、一茶は浄土真宗の熱心な信者です。 *写真は、伊勢神宮平成の御遷宮の「御木曳初式」(平成18年4月)の模様です。この時の「立柱祭」は平成24年3月に執り行われました。(神宮HPより) chatGPT斎 今日の一句    蝸牛の  殻径(みち)をゆく 地上の夢

其角 藻の花や絵に書きわけてさそふ水 7月9日(旧暦 五月二十二日)日曜日

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  藻の花や絵に書きわけてさそふ水 其角 「遊女小むらさきをかゝせて、讃このまれしに」との前書。元禄三年六月四日(1690年7月9日)のことです。 吉原の遊女小紫は其角のお気に入りだったようです。 小紫:小紫とは、明暦ころに名声を上げた江戸・京町の三浦屋抱えの名女郎のことかと推測される。 其角がつくった「吉原源氏五十四君」(貞享四年刊)にも、 「他の小女郎とは見えぬ風俗、さすがに名あるべし」と讃えられている人物のことだろう。(藤田真一「其角『花摘』の舞台」) chatGPT斎 今日の一句    満ちる夜に 藻の花咲きて 水底秘か 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2022年06月」の「六月七日」欄からの引用です。 藻 の 花 の 五分 の 魂 開 きけり 高橋悦男 日野市の高幡不動尊。境内の小さな池に白い花が浮かぶように咲いていた。折しも来合わせた同寺の川澄祐勝さんが藻の花だと教えてくれた。 「高橋悦男集」 自註現代俳句シリーズ一一( 三五)

虚子 夏の月皿の林檎の紅を失す 7月8日(旧暦 五月二十一日)土曜日

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夏の月皿の林檎の紅を失(う)す 虚子   大正七年(1918年)「七月八日。虚子庵小集。芥川我鬼、久米三汀等来り共に句作」と虚子句集「五百句」にあります。鎌倉の虚子邸だと思われます。 我鬼は芥川龍之介、三汀は久米正雄で、二人は大正5年に東京帝国大学を卒業した同級生です。芥川はすでに「羅生門」、「鼻」を発表して注目されていました。当時横須賀にあった海軍機関学校で英語を教えており、虚子と同じ鎌倉に住んでいました。虚子は珍しい夏の林檎で二人をもてなしたのでしょうか。 この頃ではないかと思われる芥川の句に、「久米正雄 微苦笑の小首かしげよ夏帽子」があります。 chatGPT斎 今日の一句    林檎空へ 月明かりの 無重力

蕪村 降替て日枝を廿チの化粧かな 7月7日(旧暦 五月二十日)金曜日 小暑・温風至(おんぷういたる)

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降替て日枝を廿(はた)チの化粧(けはひ)かな 蕪村 「慶子病後不二の夢見けるに申遣ス」と自選句集に前書がありますが、別に明和七年六月十五日(1770年7月7日)筆とする画賛*が残されています。 「慶 いせのくにゝありて、厲鬼に侵され、既世になき人の身にも入べかりけるを、稀有にして更生しければ、/ 降更て日枝を廿のけはひかな / 慶 芙蓉峰にのぼると夢て画賛をこふ。余例の等閑に過しけるが、今やその本復を賀して、又その日来のもとめを塞ぎ侍る。 蕪村 干時(ときに)庚寅六月望」 慶子は大阪の女形中村富十郎の俳号で、この年伊勢の古市の夏芝居に出演中発病したものの、回復して上京していました。「降替て」は富士山の雪が消えて新しい雪に降り替わるという意味で六月の季だそうです**。「日枝」は伊勢物語の富士の峰は比叡(日枝)山を二十かさねたほどの高さということから二十と富士に掛けて、富士の振り替わった雪のような美しい化粧に映える女形の若々しさを讃えています。 今日は、二十四節気の小暑、 七十二候 温風至です。 * 写真は「蕪村全集第六巻」(講談社1998)P389より。 **万葉集巻三の長歌「詠不盡山歌」の反歌に「ふじのねに ふりおくゆきは みなつきの もちにけぬれば そのよふりけり」 chatGPT斎 今日の一句    鏡台の 舞台化粧の 夢の影

其角  白雪に黒き若衆や富士詣  7月6日(旧暦 五月十九日)木曜日

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白雪に黒き若衆や富士詣  其角    元禄三年六月一日(1690年7月6日)の吟です。 江戸の頃、富士山の山開きは六月一日で、七月二十日まで山に登ることが許されていました。 駒込富士神社の説明書きに「旧五月末になると富士講の仲間の人々は、六月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。」とあります。駒込富士は特に町火消の信仰を集めたといい、纏が刻まれた火消組の石碑が多く残されています。今も駒込富士は火難除神符授與の社で、掲句は同社の「六月一日の神事か」と阿部喜三男は注しています。 chatGPT斎 今日の一句    夏の雪 降りそそぐ世界 幻の白 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2021年07月」の「七月一日」欄からの引用です。 頂 に 一礼 なして 山登 る 伊藤康江 「畦の会」年中行事のひとつ、富士の山開き。浅間神社でお祓いを受け、一行はバスで五合目へと目指した。 「伊藤康江集」 自註現代俳句シリーズ一一( 一八)

山頭火 かさりこそりと音させて鳴かぬ虫がきた  7月5日(旧暦 五月十八日)水曜日

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  かさりこそりと音させて鳴かぬ虫がきた  山頭火 「行乞記」昭和8年(1933年)7月5日の条に「朝風に病床を払ふ、そして洗濯、掃除、草取、等々。 街へ出かけて買物、それから入浴、どうやらいつもの私になつた。 外へ出ると、ことに田の草取を見ると、炎天だと思ふ。 筍もをはりらしい三本をぬく(うち一本は隣地のを失敬!)ぬいて、すぐむいで、ゆつくり味ふ。 帰宅途上、樹明君来庵、折よく御飯が出来たばかりで、しかも君の最大好物雲丹(これも大山さんのお土産の一つ)があつたので、夕飯をあげる、何とそのうまさうなたべぶり! 夜はおそくまで蚊帳の中で読書、極楽浄土はこゝにあり!」とあり、 これでをはりのけさの筍をぬく二本   ぬくめしに雲丹をぬり向きあつてゐる  この日の詠です。 山頭火は、二日の夕方に「焼酎と油揚餅と梅酢との中毒で私は七顛八倒」この日まで其中で臥せっていました。 chatGPT斎 今日の一句    虫と男 釣り合いなく 共に生き

清風 涼しさの凝りくだくるか水車 7月3日(旧暦 五月十六日)月曜日

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涼しさ*の凝りくだくるか水車 清風   尾花沢の豪商鈴木清風江戸小石川屋敷での百韻興行の発句。脇は芭蕉が「 青鷺草を見越す朝月 」と付け、蕉門の嵐雪、其角、素堂らが一座しました。貞享二年六月二日(1685年7月3日)のことです。 芭蕉は、4年後の元禄二年(1689)五月尾花沢に長期滞在することになります。「おくのほそ道」に「尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富めるものなれども志いやしからず。都にも折々かよひてさすがに旅の情をも知たれば、日比とどめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。」と書いています。因みに、難所の山刀伐(なたぎり)峠を越え尾花沢の清風邸に到着したのは五月十七日、新暦7月3日昼過ぎのことでした。そして早速歌仙を巻くことになり、その発句が「 涼しさを我宿にしてねまる也 」です。この芭蕉の句も清風の掲句と同じく今日詠まれた一句ということになります**。 * 「出羽の芭蕉」(小柴健一著、出羽の豪商鈴木清風を顕彰する会発行)に、掲句清風の「涼しさ」は「延宝三年五月談林始祖宗因が東下し、芭蕉同席の百韻俳席の発句宗因『いと涼しき大徳也けり法の水』に由来。」とあり、掲句は単なる眼前句でなく、談林派清風が芭蕉の俳諧が談林を超え全国に広がりますかという問いかけだったとしています。延宝三年は西暦1675年。清風は延宝七年二九歳で俳諧宗匠として立机したそうです。 **従来五月中下旬興行とされている「歌仙『すずしさを』は、五月十七日に初折まで、翌十八日に満尾します。」と特定した「出羽の芭蕉」に拠ります。また同書に、尾花沢での芭蕉の「涼しさを」は、「発句清風『涼しさの凝りくだくるか水車』を引用した「すずしさを」です。」とあります。因みに貞享二年半夏生は五月晦日、元禄二年は五月十五日でしたので、二つの興行はどちらも半夏生の翌々日でした。芭蕉も清風もこのことを知っていたと思います。もしかしたら、芭蕉はその日に合わせて尾花沢入りをしたのかもしれません。 chatGPT斎 今日の一句   旱(ひでり) の 水車回る音 天に響くか

其角 顔あげよ清水を流す髪の長 7月4日(旧暦 五月十七日)火曜日

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顔あげよ清水を流す髪の長(たけ) 其角   「井にかみあらふ賤の女は、おもひもかけぬつや也けり」との前書。元禄三年五月二十八日(1690年7月4日)の詠です。  梅雨の晴れ間に長屋の井戸端で髷を解き、もろ肌ぬいで髷を解いて洗う。釣瓶で汲み上げた水を俯いたまま長い髪にザーとかけている。たぶん若いおかみさん… chatGPT斎 今日の一句    髪洗う しぶき散るや 女のゆめ 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2023年07月」の「七月九日」欄からの引用です。 高階 に 髪洗 ひをり 町 に 雨 岡本 眸 町も、家も、人も、すべてがひた濡れるような、雨の昼さがりの閑けさ。 「岡本 眸集」 自註現代俳句シリーズ二( 一〇)

其角 汗濃さよ衣の背ぬひのゆがみなり 7月2日(旧暦 五月十五日)日曜日 半夏生(はんげしょうず)

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汗濃さよ衣の背ぬひのゆがみなり  其角 元禄三年五月二十六日(1690年7月2日)吟です。 今日は、七十二候の「半夏生」、二十四節気「夏至」の末候です。半夏(カラスビシヤク*)が生え始めるころとなり、田植も終りで、本格的に暑くなっていきます。 *ここ二日ほどカラスビシャクを探して歩いていましたが、残念ながら見つけることができませんでした。「夏至」の初候である「乃東枯」の前に探していた乃東(ウツボグサ)を、昨日カラスビシャクの変わりに見つけました。気候の指標となっているようなポピュラーな植物などが、これほど目につかなくなっていることに、今更ながらですけど気づかされています。 chatGPT斎 今日の一句    背の汗の 流れる夏の 抱擁よ 以下、「(公益社団法人)俳人協会・俳句文学館」HP「今日の一句:2023年07月」の「七月四日」欄からの引用です。 麻服 の 臀 ( いしき) は 皺 をたくはへぬ 大石悦子 少女の頃、汗かきの私に父は麻の服は着せられないなと言い、私は傷ついた。長じて、こんなに皺の寄るものなら、こちらからご免だと思った。 「大石悦子集」 自註現代俳句シリーズ一一( 五九)

芭蕉 蚤虱馬の尿する枕もと 7月1日(旧暦 五月十四日)土曜日 

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蚤虱馬の尿(しと)する枕もと 芭蕉   伊達政宗の最初の居城であった岩出山を小雨の中出発した芭蕉は、鳴子温泉を素通りして尿前関を怪しまれながらも通過、出羽街道中山越えで堺田に至ります。元禄二年五月十五日(1689年7月1日)のことで、その夜を詠んだものです。 「日既暮ければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。」と「おくのほそ道」にあります。曽良の日記に「宿(和泉庄や)」とあり、「封人の家」は堺田の庄屋有路長左衛門宅でした。この家は今も堺田に残っています。掲句は惨めな旅寝のイメージですが、庄屋の家ですからそんなことはなかったと思います。 芭蕉は、大雨のため次の日も「堺田ニ滞留」、快晴となった翌々日、大山を越えて尾花沢に向かうことになります。 Bing亭 今日の一句   馬の尿 熱き日にはじく 夏草